新春とは言いながら、四時半になるとさすがに暗くなる。レースのカーテン越しに国見山の方が一日の余光をわずかに残している。静かである。電気も無い大昔、人々はそれぞれの仕事を切り上げ、炉辺に薪をくべ、わずかな光を頼りに炊事の支度を始めたころなのであろう。
実は今日と明日、我が家は太陽光発電とオール電化を組み合わせた方式に転換中で今日は夕方まで電気が来ない。家族が四人となり、この六月にはもう一人増えるはずなので、たまたま電話で宣伝してきた業者に工事を依頼することになったのだ。最近やたら増えてきた電話による各種勧誘は頭から断ることにしているのだが、そのときはどういえ風の吹き回しか、相手の話をすんなり(?)と聞いてしまったのである。そんなことは前にもあった。くわしいことは省くが、そのときも相手の声音というか雰囲気というか、やはりすんなりと話を聞いてしまい、しがないサラリーマンにしては大きな契約だったが、結果はよかったのだ。
いやそんなことより、太陽光発電に対して、いささかの興味があったからであろう。ガソリンや灯油の値上がりは防ぎようもないご時世、太陽光や風力をわずかでも利用できたら、と漠然と考えていたからである。初期費用のことを考えると、年金生活者にとっては勇気のいる決断だったが、エネルギー浪費や環境破壊に対するささやかな抵抗と思えば安いもんである(いやいやそれはたんなる強がり)。
電気がない状態を時々は味わってみるのもいいかも知れない。パソコン、電話(IPなので)、灯油ストーブ(ファンヒーターなので)、テレビ、冷蔵庫、インタホン……、すべてがストップする。幸い田舎なので水洗便所などは使えるが、大都会だと糞詰まりという問題も発生するだろう。しかしその不便さのなかで、生きるために最小限必要なものが意外と少ないことに気づくであろうし、電気がないときにどう工夫すればいいかを考えるかも知れない。
しかし待てよ。ここではたと思い当たる。今回の工事は、我が家の電気への依存度をさらに強化することではないか、と。うーん、確かに矛盾してるな。現代ではいわゆる自然食品が贅沢品になっているように、いわゆるエコ志向も贅沢につながるのか。まっ、しゃーない、電気が使えなくなったらコンビニ弁当でも食べるっきゃないか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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