私自身まさにその渦中にあるので、ちょっと言いにくいのだが、最近の新訳ブームとやらにいささかの疑問なきにしもあらずである。
確かに時代とともに、かつていかに名訳と言われたものであっても、新しい読者にはとっつきにくいものとなるということはありうる。だから新訳が試みられるのは当然の成り行きであろう。
しかし売れる売れないという問題、もっとていねいな言い方をすれば、新しい読者層の広がり、ということになると、それが新訳のおかげである、と直結させるのはちと無理があろう。もちろん優れた新訳のおかげで売れた、という例はあると思う。どうも奥歯に物がはさまったような言い方しかできないのは、良書であることと売れることとのあいだに、ほとんど因果関係が認められないと言い切ってもいいからである。それまで売れなかった訳書が、表紙のレイアウトを変えたとたんに売れ出した、という例もその断定を裏付けてくれよう。
ところで新訳なるものをすべて詳しく調べたわけではないが、それらに共通する一つの特徴だけはつかみ出せる。原文や既訳とつき合わせての評ではなく、ごく感覚的な感じに過ぎないが、要するに「つるんとした」訳文なのだ。それはたとえば「私」を「わたし」に、「既に」を「すでに」というぐあいに漢字が少ないことからの感触だけではない。
翻訳についての褒め言葉に「こなれた訳」というのがある。これは先の「つるんとした」というのとはちょっと違うが、根っこは同じであろう。要するにこれは、学校での和訳に見られるように、辞書に出ている訳語の最初の部分にあるような言葉を連ねるのではなく、よほどたっぷりと訳語を並べた辞書にも無いような言葉や言い回しを、文章の随所に効果的にちりばめるといった、ちょっと高度なテクニックを駆使した文章について言われることが多い。たとえば「とまれ」とか「ことほどさように」とか「さもありなん」といった、いかにも「手足れ(手練)」の書きそうな言葉を巧みに配するのである。
誤訳や不適切訳は論外としても、翻訳は結局はある特定の文化の中で育った表現や思想を、それとはまったく異質の文化の表現や思想に置き換える荒業なのであるから、ぎこちなさや「こなれない」部分が残るのは当然と考えるのがやはり原点ではなかろうか。それを踏まえた上で、つまりそれが本来持っているはずの特徴をできるだけ尊重しながら、日本語としての格好を構築する、それが翻訳というものではなかろうか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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