さてここで、今までの議論で抜け落ちていることを大急ぎで補足しなければならない。仮名とは日本語独特の音節文字のことを言うが(仮名に対する真名は漢字のこと)、それだけでは文章を構成するものではないということ。つまり文章の話に入るには、もう一つ重要な要素を加えなければならないのだ。すなわちシンタクシス(sintaxis)、日本語に直せば統語・構文法あるいは文章構成法である。
仮名問題が複雑になって行くのは、この文章構成法が絡んでくるからである。要するに、古文とか現代文の違いが入ってくるのだ。ところでここではっきりさせておかなければならないのは、旧仮名・正字と新仮名・俗字の関係が、古文と現代文の関係とぴったり重なるわけではないことだ。つまり一般に古文とは江戸時代以前の文、現代文は明治以後に書かれた文章を言うのであるから、現代文でも旧仮名で書かれているものもあれば、新仮名で書かれているものもあるということだ。
先に仮名は日本語独特の音節文字と言ったが、それの表記の仕方に関わることであるなら、仮名問題は ortografía、つまり正字法にぴったり重なるものではないにしろ、部分的に相当するものと言えよう。
ところで、ここで実に基本的なと言うか素朴な疑問が湧いてくる。すなわち日本語の古文と現代文とのあいだに見られるような、劇的と言っていいような変化は、他の言語にも起こったのであろうか、ということである。私がわずか知りうるのはスペイン語の場合だけだが、日本語のような大きな変化は、たとえば近代から現代への移行期にも見られなかったと認識している。その意味で言うなら、明治から大正にかけて執拗に展開されたいわゆる「言文一致運動」がこの大変化をもたらしたものと言えよう。
「言文一致」という言葉は、1886年に物集高見(もずめたかみ)が初めて使ったものらしいが、たとえば小説家では山田美妙が「です調」を、二葉亭四迷が「だ調」、そして尾崎紅葉が「である調」を試みながら、1900~1910年の「言文一致会」の働きによって一応の確立をみたようだ。しかしその後も「言文一致体」は揺れ続け、記憶に新しい(いやいや古い古い)ところでは、たしか評論家の中村光夫が「であります調」を使ったはずだ。今でもなにかかしこまった文章を書こうとするとき、だれもが迷い、揺れているところである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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