日本語は世界の言語の中でも母音の数が極端に少ない方であろう。理論的(?)には、アイウエオの五つである。欧米語の中では、私の知るかぎりスペイン語が母音の数のもっとも少ない言語であると思うが、それでも二重母音、三重母音を持っている。もちろん現代日本語にも、英語からのいわゆるカタカナ語の影響で、ウィ、とかウェなど二重母音に相当する母音が数多く存在するようになってはいる。
しかし他方で、むかしは存在した母音が、少なくとも文字としては存在しなくなった例もある。すなわち「ゐ」とか「ゑ」の場合である。まさにこれらは上に挙げた二重母音の「ウィ」「ウェ」に相当する文字であったわけだ。ところでそのようなことを研究するのは音韻学というのであろうか、それとも音声学というのであろうか。どちらにしても私にとってはまったく未踏の領域なのでこの辺で引き返すべきであるが、ついでに気になりながら調べる時間が無かった(いやいやそんなことはない、調べる時間などなんぼでもあった)問題を覚え書きしておく。
それは日本語の古い発音を知るための貴重な文献としての『邦訳日葡辞書』の存在である。昨年初頭に亡くなられた長南実先生も関係されたものが岩波書店から出ている(1980年)。いま急いで机まで持ってきたが、解説文を読みとおすには相当時間がかかりそうなので今はやめておくが、なぜこの辞書が貴重かといえば、他の文献では絶対に分かりえない当時の(16、 17世紀の)日本語の発音がローマ字で表記されているからである。
さてここで指摘しておかねばならないのは、母音も減ったが子音も減ったということである。たとえばハ行子音にファ、フィ、(フ)、フェ、フォという音があったことが種々の研究によって確認されている。ところで私自身はいまだによく理解できていないばかりか、正しく発音もできないのだが、かつてあった多様な子音の名残りと思われるケースがある。つまり普通の(?)ガと鼻濁音のガの区別である。このあたりのことは、『学研国語大辞典』では、こう説明されている。「ガ行の子音は、外来語や擬声語・擬態語では、原則として語中・語尾でも [g](破裂音)であるが、和語(固有の日本語)や漢語では、原則として、語頭では [g]、語中・語尾ではガ行鼻濁音になる」。
もしかすると幼い子供が発する音声の中に、遺伝子だかDNAの働きで古い日本語の音が混じっているかも知れない。幼い子供ではないが、かつて妻は、最近近所に「チェイユー」というスーパーができた、と言ったことがあるが、日本語の音に「チャ」や「チュ」(と言っても単独では蜘蛛の蛛だけだが)や「チョ」はあるが「チェ」という音は無い、「セイユー」か何かの間違いではないか、と言っても、数日間その存在を頑固に主張していたことがある。あとでそれがやはり「セイユー(西友)」のことだと分かった。そのとき以来、妻の生まれ故郷はチェンマイということにした。
またあるときは街角の看板に「コーポタジマ」というのがあって、まだ幼かった我が家の子供たちが、「ポタジマ」「ポタジマ」と面白い音を楽しんでいたことがあった。もちろんそれはコーポラス [鉄筋コンクリート造りの集合住宅を指す和製英語] の略語「コーポ」に所有者「田島」をくっつけたものである。「ホダ(榾=焚き木の切れ端)」や「ボタ(俗語のぼた山)」はあるが「ポタ」なんて日本語の音は存在しないのだが、でももしかしてむかしの日本語にそんな発音の言葉があったのかも知れない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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