朝の八時半ごろ、東京の▢さんからの電話で、小川国夫さんが亡くなられたことを知った。日経新聞に出ていたそうだ。家では朝日だが、その時点ではまだ読んでなかった。急いでネットで調べる。いちばん詳しく報じているのは、やはり地元の静岡新聞だった。昨八日、午後1時57分、肺炎のため静岡市内の病院で死去、とあった。
先月23日の浮舟でのシンポジウムからあまり日が経っていないためか、なにか運命的な連続性を感じた。そして講演依頼の折衝に直接かかわらなかったことが、今になってちょっと残念、いやおおいに残念、という気持ちになっている。私が前面に出るより、浮舟からの事務的な折衝の方が彼にとって気が楽では、といらぬ心配をしたのが仇になってしまったからだ。
つまり少なくとも彼と電話で話す機会が何度かあったはずだからだ。ところで最後にお会いしたのはいつだったろう。そうだ、1990年11月末から正月休みをまたいで1月初めまで、毎週日曜、NHK文化センターでやった「スペイン文化」の講義のうちのいずれかの回のあとではなかったか。日を同じくして講義のために藤枝から出ていらした小川さんと偶然お会いしたのが最後のはずだ。たしかそのときも、いつものように熱烈な愛読者に囲まれていて、文化センター内の喫茶店にご一緒しても、あまり話せなかった記憶がある。
ともかく彼と会うときは、こちらのふだんの動作を、つまり話しかたや歩き方までを何段階かペースダウンしなければならなかった。それでこちらがいらいらするというふうにはならず、むしろ当方の日頃のがさつな生き方が恥ずかしく思えるような、悠揚迫らぬ風格が彼にはあった。いつか写真で見た母君が大変な美人であられたことにびっくりしたが、彼も実に彫りの深い美男子だった。あれでもう少し肩幅が広かったら、どんな映画俳優も裸足で逃げだしただろう。
なんて馬鹿な話をしているが、彼の死をごく自然に受け止めている自分に逆に驚いている。島尾敏雄や埴谷雄高が亡くなったときとだいぶ違う。こちらがそれなりに歳をとったからか。つまりいずれ自分も死んで行く、ということが観念上のことではなく、こうして生活しているその同じ線上に、確実に死が待ち受けていることをあまり恐れなくなってきたからであろうか。
いやいや、彼とはもう一度ゆっくり話したかった。やっぱり悲しいし寂しい。それぞれ立派に成長し活躍している三人の息子さんがいるので自分の死後のことをあまり心配なさらなかったとは思うが…11日のお別れの会には、「青銅時代」同人を代表して編集長の▢さんが行ってくれるそうなので、奥様にくれぐれもよろしくお伝えして、と先ほど電話で頼んだところである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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