寺内邦夫さんから先月25日、名瀬の協会で行われた島尾ミホさんの一周忌追悼ミサ、翌26日、瀬戸内町加計呂麻島呑之浦の島尾敏雄文学碑記念公園で行われた墓碑の除幕式と納骨式を報じる南海日日新聞、奄美新聞、南日本新聞など、南の新聞各紙のコピーが送られてきた。
記事をよむうち、加計呂麻島呑之浦の記憶が蘇ってきた。あれは昭和63年(1988年)12月4日、その同じ公園出島尾敏雄の文学碑の除幕式のときのことである。あのときは、たぶん伸三・登久子夫妻は中国に行っていたのではないか。だから私はいわば彼らの代わりとして式に参列した形になった。朝から晴れた一日で、対岸の瀬戸内町から船で島に渡ったのではなかったか。
当時の記録は、式次第のパンフレットと「南海日日新聞」の切り抜きだけで、日記は残っていないようだ。いや12月28日の日記には「鹿児島、奄美への旅についての覚え書きを、ワープロの方にいれ始めたので、この日記長から長い間離れていた」とあり、「JR九州・博多車掌区」のオレンジカード「はやぶさ号乗車記念」とテレホンカード「奄美の自然 ツマベニチョウ」が貼り付けてある。だが覚え書きは見当たらない。どこにいったのだろう。
※この項未完
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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