話は今日も終わらない

同人誌「こをろ」を軸に展開された文学青年たちの友情や仲たがいの青春絵図は、実に面白い。人間関係が濃密で、ゆったりした時間に恵まれた地方都市、しかし急速に戦争へと傾いていく時代背景、それらが相俟って、ここに日本文学史の中でも稀有な文学空間が生れた。島尾,眞鍋、矢山だけでなく実に魅力的な青年たちがいた。だから遠い東京の文学青年たちにもその噂は伝わっていったのであろう。たとえば詩人立原道造などとも交流が始まる。
 いやいや、下手にはまってしまうと、どんどんはまっていきそうだ。現に今日など、ネット古本屋に2冊の関係書を注文してしまった。田中艸太郎著『「こをろ」の時代 矢山哲治と戦時下の文学』〈葦書房、1989年〉と多田茂次著『戦中文学青春譜』、海鳥社、2006年)である。白状すると、『こをろ』(昭14/10~昭19/4の復刻版、全14冊、「こをろ通信」1巻、言叢社、1981年)まであやうく注文しそうになって、辛うじて踏みとどまったのである。面白いテーマだけど、私に残された時間を考えると、のめりこんでいる時間はなさそうだ。
 それに、「こをろ」の周辺事情や矢山哲治については、すでに『矢山哲治全集』(未来社 1987年)や近藤洋太著『矢山哲治』(小沢書店、1989年)がろくに読まれないまま書架に眠っているし、福岡在住の杉山武子さんが彼女のサイトに発表した『壮烈な花火 矢山哲治と「こをろ」の時代』をプリントアウトしたまま、これまた眠っているのだから。
 ただ「こをろ」復刻版に載った眞鍋さんの初期作品だけはいつか読みたい。もしかすると浮舟の資料館に収蔵されているかも知れない。島尾敏雄の『幼年記』もあるらしいのだが、落ち着いて調べる心の余裕がないまま、時間が過ぎてゆく。
 今日も午後、いつものようにまず夜の森公園に行って、美子の手を引いてぐるりと周囲を散歩。運動としては少な過ぎなのだが、こちらの方にも余裕がなく、ただ最低限からだを動かすつもりで歩いている。今日は風も無く、それほど肌寒くもなかったのだが、どういうわけか公園には人影が少なかった。このごろは3時を過ぎると、もう暗くなっていくような感じで、心細いような、寂しいような気持になる。弓道場の傍を通るとき、間違って矢が飛んでこないだろうか、など今まで考えても見ないようなことが頭に浮かんで、馬鹿らしいとは思いながらその考えがなかなか振り払えない。こちらから歩いていくと、矢は正面から来るから危険だ、明日からは逆の方から歩いてこよう。間違って放たれた矢は、背中からだったら即死は避けることができる、などなど、妄想は際限なく続く。
 バッパさんは寝ていたが、すぐ起きだしてベッドのへりに坐って遠い昔の話を始めた。今日は私との会話も比較的噛み合った。帰り際、今日は送っていくべ、などと言うから、バッパさんよ、そんじゃ帰りはどうすんだ、といったら、自分の言ったことの可笑しさに気づいて笑い出した。この調子、この調子、 100まで生きっぺ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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