昨日は珍しく午後から雪となり、午後一時半から福祉会館で行われる予定の法政大教授・王敏(ワン・ミン)女史の講演にとっては最悪の天気となった。しかしこの悪天候にもかかわらず、教室より少し大き目の会場にはかなりの数の聴衆が集まった。主催者側の説明では、この雪で女史が乗った電車が途中止まってしまい、急遽車に乗り換えて無事到着したとのこと。そういう次第で、定刻、国際交流協会の■さんの司会で女史の話が始まった。
スライドを使っての日中交流史、とりわけ中国文化の日本への流入がしだいに相互影響へと変容していく様が分かりやすく説明され、教えられるところ大であった。たとえば明治以降、圧倒的な西欧列強の影響に対していささか負け惜しみ的な姿勢を表わす「和魂洋才」という言葉が、実はすでに室町時代、菅原道真に仮託してまとめられた「菅家遺誡(かんけいかい)」の中の「和魂漢才」の焼き直し(とは女史は言わなかったが)であることを、恥ずかしながら初めて教えられた。
村上春樹や宮崎駿にまで及ぶ一時間半の女史の話はあっという間に終り、質疑応答へと移った。四人ほどの質問やら感想に女史はていねいに答えられたが、そのやり取りを聞いているうち、どうしても発言したくなってマイクを回してもらい、要旨次ぎのような感想を述べた。
今日の講演では触れられなかったが、私たち日本人は20世紀前半の中国侵略とそこからの敗退、つまり多数の日本人が関わった旧満州体験を決して忘れるべきではなく次代に語り継がなければならない。その喜ばしき例として、撫順捕虜収容所からの帰還兵たちが作っている中帰連(中国帰還者連絡会)の活動を最近若い世代が引き継いだことを挙げたい。ちなみに私自身、旧満州からの引揚者だが、父は彼の地で病死し王敏先生の故郷承徳の土となっている。そんな思いをこめて、日中の末永い友好と交流のため、先生がこれからも若い世代に語り続けていかれることを願っている。
舌足らずながらそんなことを言ったのであるが、今回の質問者たちにかぎらず、大多数の日本人が、中国人はマナーは悪いが付き合ってみると親切な人が多いことに感動した、といったレベルでの中国理解にとどまっていることにもどかしい思いをしての発言である。マナーの悪さなど、過去に日本人が中国でやったことを考えたらとても言えた義理ではないのだが、そこらあたりのことはすっぽり抜け落ちている。
さすがに最近の中国産食品の問題に触れた発言はなかったが、それだって、ことは中国に限らず、わが日本も発展途上の過程でどれだけの問題を克服してきたかをすっかり忘れている。たとえば最近のメラニン混入ミルク事件だって、マスコミ報道も含めて、わが国にも1953年(昭和28年)、森永ヒ素ミルク事件があったことを思い起こす人がいないのはなぜか。あの事件も乳製品の溶解度を高め、しかも安価であるという理由から工業用のヒ素を触媒にして作った化合物を粉ミルクに添加した事件である。これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出たわけで、被害規模としては今回の事件をはるかに上回るのではないだろうか。
いや私の言わんとしていることは、現在の中国の事件やら欠点を弁護するつもりでないことはもちろんである。王敏女史も穏やかに答えておられたように、まず個人と集団を分けて考えること、そしてその集団(国と言い換えてもいい)も歴史上何度も下降と上昇を繰り返してきたのであり、社会的成熟に至る過程を気長に見守る度量が必要である。いやいやそんなことより、日中両国の関係は、たとえば欧米との関係の数十倍もの長い歴史を持っているという事実の重さ、そして私たちには例えば魯迅など先人たちの貴重な経験と智恵が残されており、私たちはそれをしっかり学び継承してゆかなければならないのである。
講演のあと、思い切って女史に近づき、亡父稔の追悼文集『熱河※に翔けた夢』といつか女史のように日中文化の架け橋になってもらいたい生後7ヶ月の孫娘愛の写真を献呈した。喜んで受け取ってくださった女史は、傍らの妻にも「お大事に」と優しい言葉をかけてくださった。それから仙台に向かわれるという女史と別れて会館を後にすると、外は雪がさらに激しく舞っていた。(※熱河は女史の故郷承徳の古名)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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