羽根田・カンポス新彗星

一昨日のことである。午後三時過ぎ、いつものようにバッパさんを訪問すると、広間のいつもの席に坐ってめずらしく電話をかけている。かかってきた電話に出たのではなく、自分から係りの人に申し出てかけている様子。近くに寄って聞くともなしに聞いていると、というのは嘘で、その時の様子は、まだ施設に入らないころにも時おり見かけたフィクサーの雰囲気ぷんぷんの話しっぷりなので、できればはやく切り上げさせようと寄っていったのである。
 机の上に羽根田さんからの手紙が乗っていた。ということは、相手がだれか、そして何の用かすぐ分かった。つまり新彗星発見者の遺族と「星祭」の相談である。
 1978年9月1日夜、旧原町市郊外の住人でアマチュア天体観察者の羽根田利夫氏は、あいにくの曇り空なのでいつもの観測を休んでいた。ところが、愛犬コロがしきりに散歩をせがむ。散歩といっても家の近くに設置した手作り観測所の手作り望遠鏡で夜空を眺めることである。愛犬に促されたかたちで観測所に向かい、そして大事件が起こる。つまり新彗星の発見である。詳しい経緯はまだ調べていないが、のちにそれは同時発見者のアフリカのカンポス氏と併記されて羽根田・カンポス彗星と命名された。
 バッパさんが羽根田利夫氏その人と交流があったかどうかは知らないが、その遺族と時おりの相互訪問やら文通があったことは知っている。羽根田氏の生まれは1910年なので、発見当時、今の私と同年の69歳、世界最年長の発見者である。1992年に82歳で亡くなられたが、考えてみると私の父稔と生年が同じである。
 発見当時はもちろん大きなニュースとして伝えられ、羽根田氏への取材攻勢も激しかったようだが、今では町の人さえ忘れかけているか、まったく知られていない。そうした事態をみてバッパさんの正義感(?)に火がついたのだろうか。そのこと自体は評価できる。でも先ほど「フィクサー」という穏やかならぬ表現をしたように、肉親の僻目かも知れないが、電話片手に息巻いている(?)バッパさんの姿はどうもいただけない。
 その日も、「そのうち有志で集まって、じっくり今後のこと相談すっぺ」などと気炎を揚げているのを見て、おいおい足腰もおぼつかないし、そうとうのボケが始まっているというのに、なんと「身の程知らぬ」ことよ、と思ったし、電話を切ったあとのバッパさんにも面と向かっても言ったものだ。
 しかし時間を置いて考えてみると、「星祭」などと、まっことロマンチックで粋な発想だこと、そのアイデアもらった!と言いたくもなる。押し車でよたよた歩いているのに、「老人福祉についてのこの町の行政は…」などと、まるで町の大物気取りの言い草は、もうやめたらいいんでねーの、などといさめたりはするけど、離れて見れば、そこがバッパさんの取り柄、無下に否定するのも可哀想、と思ってしまう。
 ともかく大したばーさんだ。でも近くにいると、その毒気に耐えられなくなるときがある。そういえば、もう何十年も前から、「あんたは死んでから惜しまれる人かも知れねえけど…」と、いつも同じ苦言を呈してきたことを思い出す。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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