最近は本屋にはめったに行かない。ということは新刊本なるものはほとんど買わなくなったということである。無駄遣いしないため、というよりわが貞房文庫に、死ぬまで決して読み切れないであろう数知れぬ本たちが順番待ちをしていることを考えると、とても新刊本など買う気にならないからである。
それが昨日、久しぶりに本屋に寄る気になった。バッパさんのところから家に帰る途中にある、わりかし大きい本屋さんである。しかし予想どおり、買いたい気を起こさせる本が見当たらない。でもせっかくきたのだから、と気を取り直して見ていくうち、文庫本の書棚に大江健三郎の『言い難き嘆きもて』(講談社文庫、2004年)が眼に留まり、ぱらぱらとページをめくっていくうち、「『死霊』の終わり方」というエッセイが面白そうだったので買うことにした。
「前口上」によると「群像」(99年4月号)に掲載されたものだが、しかしもともとは埴谷雄高をめぐるシンポジウムのようなところで話されたものらしい。だがはっきり言ってつかみ所のない内容である。というより彼の文章は、時に揶揄交じりに言われているように独特な翻訳調の構文を持っていて、部分的にではあるが何度か読み返さなければ論旨のつながりがよく分からないところがある。だがよく分からないまでも、彼の文章にはかならずどこかに謎めいたものが隠されている。というか、対象が埴谷雄高であれ、あるいはある問題であれ、それこそ「言い難き」生の鉱脈に触れているからであろう。
そんなことを改めて考えさせられた折もおり、今朝の「朝日」に、定期的に連載されている彼の「定義集」が出た。新作の『臈(ろう)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の中国語訳出版を機に北京大学で講演したことなどを語っている文章であるが、ここにも巨大な謎が立ちはだかる。もちろん彼に対してでもあるし、彼の文章を読むわれわれに対してでもある。
もっとはっきり言えば、その謎はハンガリーの詩人ペトフィ [ペテーフィ]・シャンドルの詩の一節、さらに言えば魯迅が『野草』の中の「希望」という短い文章(はてこれをエッセイと言うべきか。私にはまさに散文詩であるが)の中で引用している次の一節の解釈をめぐってである。
絶望の虚妄なることは、まさに希望と同じい。(竹内好訳)
ただ私としては、その絶望あるいは希望の解釈をめぐるむつかしい議論よりも、ハンガリーという言葉から長い間忘れていたある懐かしいものを思い出した。リストの「ハンガリー狂詩曲」、特にその第五番(と思う)の、バイオリン(それともヴィオラ?それさえ区別できないが)の音色が急速に高まっていくあの美しくも悲壮な旋律である。その「ハンガリー狂詩曲」と「スペイン狂詩曲」を毎日のように聞いていた一時期があったことを懐かしく思い起こした。でもその時期がいつであったか、もはや明確に思い出すことはできない。
ともあれ、明日さっそくラジオから録音したテープを探し出して聴いてみよう。そしてついでに、ペテーフィ(1823-49)の詩が載ってるかも知れない『ハンガリー詩文学全集』(今岡十一郎訳編、新紀元社、1956年)がネットの古本屋で千円とあったので注文することにした。