このところテレサ・テンの歌をほとんど毎日聞いている。クラシック、フォルクローレ、タンゴ、演歌など、私の机から4メートルと離れていないソファーに座っている妻の無聊を慰めるため、手を変え品を変え、CDやテープ音楽を流しているのだが、結局いちばん好きらしいのはテレサ・テンだからだ。不思議と飽きが来ない。なぜだろう。声質?要するに彼女はとびきり歌がうまい、というところに落着く。
歌のうまさでは「昭和の歌姫」美空ひばりもいるが、うまさの質がちがう。ひばりのうまさは、鍛え上げたうまさであり、ひばりという強烈な個性(お嬢、姉御的個性)の色が際立つうまさである。しかしテレサ・テンのうまさは、なんと表現すればいいのだろう、色のついていない、透明なうまさでる。もちろん没個性の、精巧なうまさというのではない。個性がない、というのではなく、ちょうど光が対象によって様々に色を変えるようなうまさ、と言えばいいのかも知れない。
「つぐない」とか「愛人」といった日本の演歌はもちろんいい。生涯260曲もの日本の演歌をカバーしたそうだが、一般論としては元歌を歌っている歌手より数段いいのである。西陽の当たる部屋とか、紫煙たなびく酒場の情景を歌って、日本人歌手以上に情緒纏綿の演歌(艶歌?)の世界を表現する。だが不思議と汚れていないのだ。あらゆる不純物が濾過された情緒が、胸の奥までどんどん染み込んでくる。
彼女の歌を聴いたあとでは、他の歌手の荒さ、不正確さが気になる。歌がうまいと言われる有名歌手であっても、意外と荒っぽい。プロなんだからもっとうまく歌え、と言いたくなる。だから日本語を実に正確かつ情感たっぷりに歌うテレサに対しては、思わず、テレサよ素晴らしい歌を残してくれてありがとう、と言いたくなる。
しかし、である。彼女は一般の日本人が知らない別の、もっと豊かな世界を持っている。それを知ったのは、2年ほど前、嫁のために、と思ってネットで安く手に入れた中国語ヴァージョン、全11枚のCDを聞くようになってからである。中国語で歌うテレサ・テンだから、もちろん日本の演歌より台湾や中国の歌が圧倒的に多い。幼いときから天才的との評判をほしいままにした中国人歌手がそこにいる。日本人より日本人的な歌手などと勝手に思い込んできたテレサ・テンが、なんだか遠くに行ってしまったような不思議な淋しさすら覚えるテレサ・テンがそこにいる。
どこかで聞いたようなメロディー、あゝそうか日本の演歌だ、と途中で気づく日本の歌、「夜来香」や「何時君再来」のような日本でも有名な中国の歌に混じって、おそらくは台湾先住民族のものと思われる、素朴で可愛らしい歌がある。紛れようもなくテレサ・テンではあるが、中国本土(と言うのかな?)や日本などの色にまったく染まっていない、純朴で健康的な農村の乙女の歌が聞こえてきて、不思議な感動を覚える。日本的演歌の世界に閉じ込めようとした自分が恥ずかしくなるような純粋無垢の魂の歌が聞こえてくる。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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