陸奥(みちのく)の 真野の草原(かやはら)遠けども
面影にして 見ゆといふものを
(陸奥の真野のかや原の遠いように、遠く離れていても、人は思えば面影に立って見えると言いますよ)
これは笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌三首のうちの一つである。この女流万葉家人が万葉集編纂者に贈った歌は、他にも26首あるという。なーんて知ったようなことを書いたが、万葉集については正直なところ全くの無知である。それなのに…
息子夫婦と孫娘が、嫁の実家に里帰りして急に人気(ひとけ)のなくなった下の居間で、改めて書棚を眺めていたときに、『万葉集 土屋文明訳』(河出書房新社「国民の文学2」 1963年)の中に見つけた歌である。もっと正確に言うと、中扉にバッパさんの字で「巻3の396 真野 鹿島町」と書かれていたから見つけた歌だ。他に安積山や安達太良山など福島県や宮城県の地名が9つほどがメモされている。
母が一時期、M先生主宰の短歌グループに入っていて、そのM先生ご夫妻ともう一人の合計四人で万葉の旅を敢行したことなど他人事のように見ていたが、M先生のお宅(たしか一度お伺いした記憶がある)が、やはり万葉集に歌われた松川浦にあったことを思い出し、なるほどバッパさんが短歌をやるのはそれなりの因縁があったのか、などと今さらのように合点した。ちなみにその歌とは、巻14の3552にある
松が浦に さわゑうらだち ま人言
思ほすなもろ 我が思(も)ほのすも
(松が浦に騒いで浦波の立つような世間のうわさなので、君も私を思うでしょうよ。私が君を思うように)
松川浦の歌は、東国人の風俗・心情を都人に知らせるためにまとめられたいわゆる東歌に分類されるが、真野の歌は都人の女流歌人が歌ったもの。ということは歌人は実際には見たこともない辺地の風景を想像したことになる。「新潮日本古典集成」の方の注によれば、真野という地名は歌枕的に使われたものらしい。相馬地方が歌われたのはその2首だけというのは寂しいが、でも万葉の昔から文学的(とはちと曖昧な評語だが)風土であったことはともかくも嬉しい。六号線を横切る真野川は以後心して渡ることにしよう。
今まで、俳句と比べて短歌は何となく冗漫で女々しいものと思って敬遠してきたきらいがあるが、しかしその女々しさと言ったらいいのか、情緒纏綿と言ったらいいのか、やはり日本人の感性の根っこにあるものかも知れない、などとこれを機に見直す気持になっていることは確かだ。
※地元鹿島区で、まさに昨日から今日にかけて「万葉の里 かしま春まつり」が行われていたことを、インターネットでいま初めて知った。こんな偶然もあるのだろうか!笠女郎の霊が私に語りかけてくれたのだろうか。来年はぜひ見物しよう。ともあれ、祭りの案内文は以下のとおり。
「万葉の情緒を再現する祭で、メインとなるのが万葉風俗パレードです。王朝文化の衣装や御所車が登場し、十二単の笠女郎(かさのいらつめ)が御所車に乗り、稚児たちを先頭に、垂れ衣、小袖姿の官女らが優雅に行列を続けます。パレードは一般参加ができます。」