八月六日(木)曇り時々晴れ
昨夜の夕食時にはここ数日絶えてなかった安堵感が戻ってきた。久しぶりに(実際はわずか4食ぶりなのだが)美子の食事を介助したからである。手術前よりたくさん食べた。というのはそれまでは座ったままだと10分過ぎると痛みを感じて急いで切り上げなければならなかったからだ。話しながら笑いながら、そして時には鼻歌まで交えての楽しい夕食となった。
そしてその安堵感は、今朝の食事時にも続いた。今度は完食だ。と書いて、「完食」なんて言葉は、テレビのグルメ番組を真似たのだが、もちろん辞書には無いだろう。「平らげた」の方がいいか。でも今回は許してもらおう。
ところで昼食時に嬉しいことを言われた。つまり今日の午後二時にICUから個室に戻れるという知らせだ。まだ二、三日は覚悟していたけど、術後二日目で個室に戻れるのだ。回復が順調だということであろう。ありがたい。ただちょっぴり残念なのは、今晩から畳の上ではなく、また固い床の上で寝なければならないということ。まっそれも大きな喜びの前ではまるでちっぽけなことだが。
さて個室は予想に反して前とは別の、しかもはるかにグレードアップした部屋であった。三階廊下の西側突き当たり、窓自体は北向きだが、ベッドからは西空が、そして見ようとすれば町の西手に広がる阿武隈山系が遠くに、そして近くには石神の小高い小さな山というより臍のような突起部が見える。たしかあそこに神社があったはずだ。前の部屋より二畳分広いその部屋には、なんとバス・トイレが、そしてナイト・テーブルに二つのソファー、小さなロッカー、新しい冷蔵庫まで付いている。もちろん私にはちと痛い差額が取られるであろうが、原稿書きのためにビジネス・ホテルに籠った、とでも考えれば安いもの(?)である。ただしその稿料は無料ではあるが。
いやこの際の主役は妻であり、彼女のリハビリのために格好の場所を確保できたことを感謝しなければなるまい。それはそうだが、窓からすぐ近くには、こちらの病棟とコの字形に繋がるレンガ色の別棟と小さな中庭が見え、想像力をたくましゅうすれば、たとえばヒッチコックの映画『裏窓』の書き割りにも見えてきて、いまこの「日記」と並行して四苦八苦している「青銅時代」の原稿(小川国夫『或る聖書』をめぐって)を書きあげたら(でっちあげたら)、ちょっとこじゃれた(あっこれも辞書にない。こうしてどんどん日本語が乱れてゆく)ミステリーでも書いてみましょうか。
テレビを見ていないので(新聞は弁当と一緒に家から持ってくるので、いつもより詳しく読んでいるが)、うっかりしていた。今日は広島原爆投下記念日だった。世間ではオバマさんがアメリカ大統領として初めて原爆投下を反省したとかしないとか騒いでおり、中にはそれをひたすら有り難がっている向きもあるが、それはあまりにも可笑しいというか卑屈というか、そんな精神を植え付けられている日本国民、いやそれ以上に、そうした状況を作り出してきた日本の政治家たちになんとも言えない情けなさを、いや怒りを感じる。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日