病室から(その五)食事の介助

八月五日(水)曇り
 朝方七時ごろICUに美子を訪ねたが、麻酔が効いているのか、呼びかけたり頬を叩いたり(もちろん軽く)しても一向に起きない。しかし耳元で少し大きな声で「パパだよ分かる?」と聞くとわずかに頷く。いま背中の方がどうなっているのか想像するだに恐ろしいが、昨夜の今朝である。医学の進歩には驚嘆せずにはいられない。
 八時ごろ家に帰ったが、下の若夫婦たちはまだ寝ているようだ。昨夜病院との往復で疲れたのであろう。二階の「我が家」に上がり雑用を片付ける。そのうちの一つは、この「病室から」をネットに載せること。フラッシュメモリーから移す作業も慣れてきた。Eメールを使っている相手にはメールで、そうでない相手には電話で昨夕の手術成功を知らせる。
 朝はまだ何も食べていなかったので、レンジでパックのごはんを温め、お茶漬けの素をかけ、お湯を注いで朝食とした。二階に戻っていることに気づいたらしい頴美が上がってきて朝食の心配をしてくれるが、今回は茶漬けで充分。
 てなことをだらだら報告しても、書く方も疲れるけど読む方もつまらないだろう。ここで何か面白いことを、といっても急には思いつかない。あとからにしよっと。
 幸いなことに(?)またまた面白いことが持ち上がった。湯沸かし器(瞬間という言葉を付けないのは、歳のせいか多少時間がかかるようになってきたからである)が沸点近くまで上がる事態が起こったのだ。ナースステーションに、ICUから個室へ戻れるのはだいたいいつごろになるかを聞きに行ったときのこと。応対した少し太めの(けっして差別しているのではなく区別しているのだ)看護師は、分かりませんが二、三日はかかるんじゃないですか、と他人事みたいな返事。それはまあいいとして、続けてこんなことを言う。佐々木さんは食事時に起きないんですよ。(えっ、そう言われても、こちらも困る。)それに佐々木さん食べるときのスプーンとか吸い飲みなんて持ってきてます?えっ、それはちゃんとお渡ししてますけど。(そこで急速に湯沸かし器の温度が上がり始める。)
 ICUに入って食事の様子を見せてもらうと、先ほどの看護師が食事をスプーンに入れて口元に持っていくのだが、極端な話、かまどにシャベルで石炭を運ぶような(もちろんこれは誇張表現である)、いささか乱暴なやり方。それを見かねたのか(と私には見えた)、近くで見守っていた別の看護師がそっと交代する。こんどは見るからに丁寧なやり方。私も傍でいつものように声をかけてやると驚くほど積極的に、つまりむさぼるように食べ始めた。昼食の時間もとっくに過ぎており、明らかに空腹だったようだ。そういえば朝食の後、顔見知りになった家族の一人から「この人、声かけても起きないのよ」と看護師がこぼしてた、と教えられたのを思い出した。そのときはあまり気にならなかったが、もしかすると朝食はとばされたのかも知れない。
 もちろん私はその後ナースステーションに行き(=を襲い)、先日書いたようなフンムキ(いや雰囲気)でじっくり抗議した。しかしこの病院のいいところは、その後すぐ婦長らしき上品な(これはお世辞ではない)看護師が控室にやってきて丁寧に詫びたことである。これは決定的に重要なこと。看護師の中にもいろんな人がいる。たとえば先ほどの太めの看護師だって、別の局面では、たとえばバレーボールのチームでは、人望厚い名セッターであるかも知れない。だがしかし、である、看護師としては決定的に修行が足りとらん。
 そんなことがあってか、夕食前にステーションに行き(今回は襲わず)、夕食からは私に介助させてください、と申し出たら快く承諾してくれた。これで一安心。でも本当は、プロの看護師は患者の家族にこんな思いをさせてはいけません。この場合のプロとは、他の業務の場合には熟練した手さばき足さばきですべてに効率的・能率的に対処することかも知れませんが、こと患者に対しては可能な限り家族になり代わって事に当たること、だれもが、たとえば言語表現がままならぬ妻のような患者であっても、大切な過去を背負って病院にやってきた客人として遇することなんですよ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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