病室から(その九)

八月九日(日)曇り時々小雨
 今日が日曜であることを病院玄関に降りて初めて気づいた。普段なら賑わっている一階広間が閑散としている。
 午前中のスーパーでの買い物で、おしりふきタオルを二袋買った。(もちろん今は、看護師さんが便の世話をすべてやってくれている。長い間、排便の世話で苦労してきたので、立ち上がって便器に跨がれるようになるまでのこの期間は、ありがたい束の間の休息時間である。)スーパーには介護用品コーナーがかなりのスペースを占めているが、昔からそうだったのだろうか。どうも最近のような気がする。ともかくいろんな種類の商品が並んでいる。昔の老人たち、そして介護する家族は、どういう工夫をしていたのか。
 いずれにせよ、排便の問題は、時に人間の尊厳に関わってくる。たしか自らアウシュビッツの地獄を体験したフランクルの『夜と霧』だったかに、囚人たちが大きな穴ぽこの上に渡された細い板の上を、向こう側に着くまでに大小便を垂れ流ししながら歩かされる光景があった。その後ホースで水をかけられたのであろうか。動物以下の扱いである。
 午後四時半ごろ、わずかに西日が射したようだ。あわてて窓のところに行って西空を見上げる。レンブラントの絵の中のように厚い鉛色の雲間からかすかに光がこぼれる程度である。それでも嬉しい。この病室にも温かな陽光がほほ笑み、さわやかな風が吹き抜けるときが来るのだろうか。なんだかそんな気がしない。(お笑い番組のファンなら、これがだれのパクリであることに気づいてくれるかも知れない。といって私はぜんぜん好きでない芸人だが)。
 やはり疲れが蓄積しているのだろうか。とりわけ食事の介助をしているとき、頭の芯が痛くなってくるような得体のしれぬ疲れに襲われる。たいてい完食に近い食べ方をしてくれ、それはそれでホッとするのだが、そこに至るまでの時間が無限に続くように感じられるのだ。口の中のものがなくなって、「さあ口を開けて」というこちらの促しに独り言を続けたりして一向に口を開けてくれない時がある。本人は上機嫌なのだが、こちらは匙を持ったままの待機状態が続く。でもここで絶対に「サジを投げない」のが私の偉いところ。(と自分で褒めるしかない。)
 数えてみれば、今日で入院して13日目である。そんなに日が経っているとは思わなかった。七月から八月へと越えたことは承知していたし、こうして日記に日付も記しているのに可笑しいが、実感としてはせいぜい五日くらいの感覚である。つまりは旅先での時間感覚なのであろう。旅で思い出したが、この病室を独房と見做したことはすでに述べたが、ときどきこの病室が東へと航海する大きな船で、病室が船尾近くのキャビンに思えてくる時がある。エアコンの音が窓外を吹き抜ける風の音に、そしてベッド下から聞こえる水の循環する音が、船底からかすかに聞こえてくるタービンの音に聞きなせるのだ。さてこの船が錨を下ろす港へは、あと何日の航海が必要か。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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