八月十七日(月)うす曇り
今日の天気のように、いまちょっと中途半端な気持ちが揺れ動いている。一つは、この病院での日課に慣れてはきたが、残されている日々もこのままを続けるべきかどうか、についてである。いまは誠に健康的な(?)生活である。つまり夜は九時消灯と共にベッドに入り、朝は五時過ぎには起きるという毎日。別に九時消灯は守らなくてもいいのだが、小さな電灯をつけてまで本を読んだりものを書くまでもない、そのためなら日中あり余るほどの時間があるのだ。事実、たとえば夕食を終えて就寝までの3時間は、実にたっぷりしていて、その時間だけでも集中すれば、入院前のちんたらちんたらしていた時の一日分の「仕事」も可能なほどの時間となる。
それはそうだが、たとえば消灯後でも、小さなDVDプレイヤーで今まで見ないで溜めてきた名画の数々を見てはどうか、と迷い始めている。こんなことを考えるのも、今ではポータブルの一万円を切るプレイヤーがあるからだ。
いや迷いのそもそもの発端は、実はそんなことではなく、例の「小川国夫の『或る聖書』について」が、現在尻切れトンボのまま中断していることである。つまり平沼編集長に何度電話しても留守電になっており、原稿ができそうだけど連絡もらえるか、というメッセージを残しているにも関わらず、ここ十日ほどうんともすんとも音沙汰がないからである。何日までは待つから頑張れ、との声がかかれば、それを励みに最後の仕上げにドッコイショと声を出すのだが、肩透かしにあったようで頑張れないでこれまで放置してきた。本当は他人はどうあれ、もともと締切は過ぎているのだから、一人で頑張ればいいのだが……
ここに入った当初の気持ちに戻って、いい機会だからDVDなど見ないで、努めて読書に励んだ方がいいのではとも思う。昔読んで気になる本をもう一度読み直す、ということで、夕べ寝しなに思い出したのは夏にゆかりの本二冊だ。一冊は題名だけで内容が思い出せないフォークナーの『八月の光』。もう一冊は、作者はトランスヴェ…なんとかで題名は確か『バスクの夏』と言う推理小説だ。午後の帰宅の際探してみよう。
とここまで書いて午後の帰宅となったが、しかしこういう心の動きのときは、結局は迷い始めに頭にあったことをやり通すことになる。案の定、病室に帰る前に量販店に寄り、ポータブルのDVDプレイヤーを購入した。しかも店長らしき商売上手に予定していたものより1ランク上のものを2千円負けてもらって手に入れたのである。今晩から手持無沙汰の時間(それもいいものだが)に見ないまま溜めこんできた名画・話題作を順次見ていこうか。さしあたって今晩は、中米エル・サルバドルの12歳の少年兵を描いた『イノセント・ボイス』でも。
ところで午後に帰宅したおり、頴美が玄関先に出てきて、振り返りざま「おじいちゃんが帰ってきたよ、愛、おいで!」と言うのだが、ソファーの向こういるらしい愛はいっかな出てこようとしない。いつもはとことこ、しかもかなりのスピードで出てくるのだが。部屋に入ってソファーの向こうを覗いてみると、今しも大きな皿に載ったトマトを両手で食べることに没頭しているところだ。この子の偉いところは(そら始まったぞ孫自慢)、興味のあるものや欲しいものを簡単にはあきらめないことである。抱っこしてやると、胸ポケットにあるメガネや他の何でも、引き出そうとする。メガネはまずいので、他のものに気をそらそうとしても、数分後には必ずその気になるものに意識を戻す。そしてそのつぶらな眼でこちらの眼をきっちり見ながら、また手を伸ばしてくる。そうだ、これと思ったものは死んでも離すな!(とはまた過激な)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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