病室から(その十六)勢多の夏

八月十六日(日)快晴
 昼過ぎ、川口の娘から電話があり、今週の水曜、原町行きの切符を買ったとのこと。今回は健さんは留守番、車ではなく電車で来て、土曜まで滞在するそうだ。思わず電話の向こうの子供たちの喜びが私にも伝染した。家族だけの車の旅もいいが、駅の雑踏の中を小走りで目指すプラットホームを探し出し、行先と時間を記した掲示板の前で安堵する、あの感覚は何にも代えがたい。
 病室からも晴れ渡った青空が見える。今まさに夏休みなのだ。夏休みと言えばやはり小学校時代、あの勢多の山で過ごした休みのことが忘れられない。休みになるのを待ちかねるようにして兄姉たちと士幌線の汽車に飛び乗った。上士幌を過ぎるあたりから胸や下っ腹あたりが締め付けられるような感じに襲われる。そして車窓遥か左前方に、懐かしい勢多の山らしきものが紫色に煙って見えてくる。これはまだ日が高い夏の光景である。冬休みだとこうはいかない。萩が丘駅に着くころ、日はとっぷり暮れて、祖父母の家までの遠い山道の途中は、それこそ魑魅魍魎の潜む危険な登り道となる。(冬の勢多については、「雪明り」という短編に書いた。)
 三年前の六月、この懐かしい勢多を訪ねた。今となってはばっぱさん最後の北海道旅行である。ネットで探した旅行用の折り畳み車椅子を持ち、その頃は長野に住んでいた頴美を呼び寄せての四人旅。帯広の健次郎叔父が車で上士幌の「はげ庵診療所」まで連れて行ってくれた。着いたその日、御史さんの車(古いボルボ)に先導されて、私にとっては半世紀ぶりの勢多と再見した。もちろん祖父母の家は跡形もなく、ただ御史さんが目印に置いた石から往時を偲ぶしかなかった。たしか家のすぐ下に小川が、そしてその側にドラム缶で作った五右衛門風呂があったはず。下駄を履いて沈んだその風呂の熱かったこと。いやその石から想像していくのは無理なほど、あたりはすっかり木と草に覆われていた。無理もない、半世紀もの時間が経ったのだから。
 休みごとの勢多行きが楽しみだったのは、祖父母と棟続きで同居する叔父の誠一郎一家、とりわけ従弟たちと出会えるからである。ミフミ、ミタミ、ミキと男の子には珍しい命名(御の字にそれぞれ史、民、紀を加えた)はいかにも叔父らしい。上の二人は満州生まれだが、いちばん下のミキは確かこの勢多の生まれ。同居の前、叔父の一家は一時期近くの、とんがり屋根の、童話に出てくるような小屋に住んでいて、たぶんそこで生まれたのか。朝方、吹き込んだ雪で布団の上が白くなっているような山小屋だった。
 夏のいちばんの楽しみは、どんこ釣りだ。何匹もの太いミミズに糸を通し、それを棒の先に結びつけ、大きな岩の下あたりにそっと入れると、間髪をいれずに喰いついてくる。水から出してもがぶりと喰いついたまま離さない貪欲な魚である。しかしあれを食べた記憶がないのは、ただ釣り上げる快感だけの遊びだったのか。ともあれ足を入れると今にもちぎれそうな冷たい水と、耳元を吹き抜けていく爽やかな緑色の川風が今でも感覚に残っている。
 懐かしい勢多、開発で昔の面影もないのとは反対に、人の手をさらに離れて原始の姿に戻りつつある勢多。寂しいことに変わりはないけれど、どちらかと言えば、手つかずの太古へと戻っていく方が私には嬉しい。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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