病室から(その十八)

八月十八日(火)曇りのち晴れ
 『サイレント・ボイス』、政府軍とゲリラとがせめぎ合う最前線の村、その村に住む十二歳の少年とその家族の物語。銃弾が飛び交う中、それでも続けられている日常。そんなことありえない、と考えるのは平和ボケしたこちらの錯覚か。でも気になるのは、それは映画用だろう、と言いたくもなるようなあまりにも可愛い少年や少女たちのしぐさと笑顔。
 死んだ少女の遺骸を取り巻いて唱えられる「天使祝詞」。「めでたし聖寵満ち充てるマリア…、罪人なる我らのために今も臨終の時も祈り給え、アーメン」。でも同じ祈りを政府軍兵士も死に際して唱えているであろう不思議さ、というか滑稽さ、というか愚かしさ!
 すべてを見通し、すべてに応分の報いを与え、すべてを許したもう神がいるという信仰こそが、むしろ恐ろしい。死後に永遠の幸福が待っていると信じ込んでこの世の生命を粗末にすることの方が恐い。いまあるその命を大事に、いちど失ったらそれこそ永遠に取り戻せない命を、大切に大切にすることの方が数倍、いや数千倍、いやいや比較にならないぐらい大事なことだ。
 人よ、限りなく、限度を知らずに怯懦であれ、と言いたい。はいつくばってでも、笑われてでも、軽蔑されてでもいい、ともかく生きよ!その限りを尽くした後なら、従容として死を受け入れよう!
 映画をまだ見終わってもいないのに、そんな感慨が胸を去来した。続けて見ようか? 見なくてもいいような気がしている。つまり映画として特に優れてるとは思えない。確かに現代の撮影技法、音響効果などを駆使していかにも映画らしい映画に仕上がってはいるが、肝心の心、つまり上につい吐き出したような、心の底から絞り出すような悲しみ、問いかけ、そして怒りが映画の作り手の方に希薄のような気がするからだ。とりあえず必要最小限のデータだけでも。2004年メキシコ映画、製作・監督・脚本ルイス・マンドーキ、出演カルロス・パディジャ、レオノア・バレラ、以上。
 午後、ばっぱさんを連れて I クリニックに月一度の受診に行く。とりあえずどこも悪いところはありません、と中学教師時代の教え子 I 医師がやさしく繰り返す。どこが悪いか分からないのだが、というばっぱさんのぜいたくな現状報告に対するお答えである。時々右膝が痛くなるとか、歩行がおぼつかなくなってきたことなどは、97年間使い尽した肉体のささやかな愚痴と考えれば、あと3年はなんとか行ける、100歳の大台に乗れる。
 ところで私自身の方も、このところ数値が安定しているので、体重を増やさないことだけ注意してください、とこれまた嬉しい診察結果。
 ところでばっぱさん、事あるごとに明治生まれを主張するのだが、いつの間にか公文書などでは大正元年になっている。遅ればせながら今、電子辞書で調べてみたら、明治の年号は1868年9月8日から1912年7月30日、そして大正は1912年7月30日から1926年12月25日、つまりばっぱさんは二つの年号が重なった日に生まれているのだ。ばっぱさんの主張にも一理ある。問題は30日生まれをいつから大正生まれと認定するようになったのかだ。まっいいかどちらでも。ここは本人の言うとおり「明治の女」にしておこう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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