八月二十七日(木)晴れ
美子の治療経過の中の、今はいささか中だるみといったところか。傷の治り具合は順調に来ているようだが、リハビリということになると未だ足踏み状態である。明日、仙台からコルセットが届くので、それを装着した段階でまた新たな展開が生まれることを期待したい。昨日は成功した排便の方も、そんなことから中断している。つまり大苦労のすえ便器に坐らせても、すでにやってしまった後だったりで、どうもうまくいかないのだ。ただ昼ごろ、看護師さんが美子を便器の上で中腰にさせてお尻から大量の便を手袋をした手で出してくれた。これではさぞ苦しかったろうと思われるほど溜まっていたのだ。美人の看護師さんが涼しい顔をして、そんな汚い作業をいとも簡単にやってのける、さすがプロだと感嘆もし感謝もした。
このところ下の方のはなしが続いたので、少しきれいな話をしましょう。といってそれはきれいはきれいだが、いま一つぴんとこない映画の話である。たぶん私はまだ見ていない『雨あがる』で2001年の日本アカデミー各賞を総なめにしたと評判の小泉尭史監督の『阿弥陀堂だより』である。出演者も寺尾聡、樋口可南子、香川京子、それから老婆役をやらせたら右に出る者のいない…名前が出てこない…出てきた、そう北林谷栄、など錚々たる配役陣をそろえ、とうぜん期待して見ていったのであるが、どうも感心しないのである。背景は奥信濃という美しい自然、それこそいいとこばっか、いい人ばっか、の映画のはずなのだが。
要するにすべてにわたって計算された演出臭ふんぷんなのだ。たとえば夕暮れの村道を主人公夫婦と村の子供たちが帰っていく場面。そら子供たちが歌い出すぞ、それも「夕焼け小焼け」を、と思っていると案の定歌い出す、それもどこかのひばり合唱団みたいに、おまけに曲がり角に来て二番が始まり次の曲がり角で三番、そら振り返ってサヨナラ言うぞと思っていたら、ビンゴ!、声を揃えて「さようならー」だ。いまどきの子供が、「夕焼け小やけ」をそんなとききっちり三番まで歌います?
この村出身の売れない小説家と病上がりの診療所の女医夫婦を歓迎する会に集まった、背広を着たサラリーマン風の男たち(村人役がいなくてスタッフから駆り集めたか)の、いかにもそんな時にしゃべりそうな陳腐な言葉の数々。かぞえあげればキリがない。つまりリアリティーが希薄なのだ。たとえば小津安二郎映画の、あのきっちりしたカット割りとアングル、そして独特なセリフ、あれも見ようによっては現実にはない理想の画面かもしれないが、しかし映画特有のリアリティーに満ちている。どこがどう違うのか、説明は難しいがともかく違うのだ。
とりあえず今言えるのは、画面から次にどう展開するのか、というスリルというのか謎というのか、それが感じられないのである。といって実は最後まで見終わっていない。一応は最後まで見てみるつもりだが、とんでもないどんでん返しがないかぎり、それにこの映画にそんなものが用意されてるはずもないので、このままエンディングを迎えるのであろう。メデタシメデタシ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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