九月五日(土)曇りのち晴れ
昨日、魯迅への回帰(とはちと大げさだが)を宣言したが、実はそう書いている最中も書き終わってからも、いや待てよ、この際戻るのはウナムーノにではないか、と思っていた。だいいち、この場所そのものの名付け親が彼なのに、最近あまり彼を読んでいなかったからだ。いつか挑戦したいテーマは、スペイン近代とウナムーノ、中国近代と魯迅、の比較研究だが、それにしてもウナムーノを読まなくなって久しい。
モノディアロゴスという言葉をどこで初めて使ったかを調べることもしないでここまで来てしまったし、『小説はいかにして作られるか』が、私自身のこれからの方向性や手法を探るために最も有力な手がかりになるはず、と考えながらも今日まで具体的に検証することもしないで来てしまった。というわけで、今日はともかく『全集』第五巻(面白いことに『モノディアロゴス』というタイトルのもとに集められている作品群が、総タイトルが「戯曲全集」となっている第五巻に収録されている)を病室に持ち帰ることにした。本当は『小説は…』が収録されている巻も探したのだが、なかなか見つからなかったのだ。つまり総タイトルが「小説」の第二巻にも、「詩」の第六巻にも、そして「黙想と霊的エッセイ」となっている第七巻にも入っていなかったのだ。それではどこに?
一応はウナムーノの専門家を自認する人間がこの体たらくである。そのくせこれまで題名が『小説はいかにして作られるか』となってきたことにいささかの疑問も感じてこなかったのに、むしろ『(人は)いかにして小説を作るか』と能動文にすべきではないか、などと考え始めているのである。スペイン語文法的に言えば、原題は受動的な意味にも(主語は小説)、非人称的な意味(主語は人)にも取れるが、さてどうなんだろう?
それはともかく、私自身がこれまで書いてきた文章が、まさにウナムーノの言うモノディアロゴスであり、創作と意識した作品も『小説はいかにして作られるか』を心のどこかで意識して書いてきたわけだが、その私が恥ずかしいことに、ウナムーノの作品を真剣に読んでいないという実態が、前述のどたばたにはっきり露呈したわけだ。
さて第五巻の解説はもちろんガルシア・ブランコだが、彼によるとモノディアロゴスに共通する特徴は二つ、すなわち真理への情熱と自伝的価値だそうだが、私もそのひそみに密かに倣っているつもりだ。さらにブランコは「哲学者は荘厳なものをつまらぬものにするが、詩人はつまらぬものを荘厳なものにする」というウナムーノの言葉を紹介している。たしかセルバンテスも『犬の対話』という小品で、作家の真骨頂はつまらぬものをいかに面白く表現するかにかかっている、といったようことを言っている。
もちろん私は彼ら大文学者の真似をするなんて大それたことを考えているわけではない。ただ残り少ない人生を、書くことを頼りに、なんとか歩き通したいと望んでいるにすぎない。たとえばこの「病室から」がそうだが、もしこれを書くことをしなかったら、とっくに息切れし疲れきって、病人の付き添いどころではなく自分自身が病人になっていたであろう、ということである、平たく言えば。
いやいやそんなことより、午後、ひとつ嬉しいことがあった。美子がベッドの上で、寝ながら片脚を天井に向けて大きく上げる動作をくりかえしているので、どう起きてみる? と聞くとうなずく。今度はベッドの周りを手をつないで歩く。何の問題もない。それでドアを開けて廊下に出、ナースステーションの方にゆっくり歩いてみる。ぜんぜん大丈夫。廊下にいた看護師たちが驚いたような顔でこちらを見ている。少し誇らしいような、恥ずかしいような気持で無事病室にご帰還。この調子だと明日から私も美子のリハビリを助けてやれそうだ。特に明日は日曜でリハビリが休みなので時間がもったいない、私が担当しよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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