ペソアの例えばこんな短文。
「道なりに曲線を描きながらやってきた、それは大勢の若い女性だった。道を歌いながらやってきた彼女たちの声の調子は幸せそうだった。その人たちが何者なのかを私は知らない。感情らしきものもなく、遠くからしばしその声に耳を傾けた。彼女たちに対する悲しみを心に感じた。
その将来にだろうか? その無意識にだろうか? ひょっとしたら彼女たちに対してではなく、おそらく単に自分に対してだったのかも知れない。」(高橋都彦訳)
スペイン語を見ての感想。もしかしてポルトガル語は訳文のように訳すのが最良なのかどうかは知らないが、「感情らしきものもなく」のところは sin sentimiento propio となっていて、私なら propio の意味を「それと名指しできる」、あるいは「それなりの理由(わけ)のある」と解し、それが sin で否定されているのだから、「取り立てての意味もなく」、あるいはもっと平たく「なぜともなく、遠くから…」ぐらいに訳すかも。
それから二番目の段落の「無意識」であるが、確かに原文では inconsciencia となっているのだろうが、それも思い切って「屈託の無さ」ぐらいにした方がいいのではないか。と、このように他人の訳には気楽にケチを付けられるのだが、いざ自分で訳せ、となると、ペソアの文章は実に難解である。
思わず(sin sentimiento propio)翻訳講座めいたことを言ってしまったが、本当に言いたかったことは(いつもの通り頭が長すぎ大きすぎ)、ペソアのこの文章はまさに散文詩であり詩そのものだということである。それなら、お前にとって詩とは何か?と訊かれれば答に窮する。
でもこの際だ、思い切ってカタッてみよう。例えば普通の(?)散文では、言葉はその意味する対象から決して離れてはいけないが、詩の場合、言葉はその意味する対象をいわば発条にして飛び立つ、といってもいいのかも知れない。その意味で先ほどのペソアの散文詩にあった propio という言葉はまさにそこに触れていた。つまり若い女性たちにべったりつきまとう感情ではなく、屈託の無い彼女たちの「若さ」に対する羨望やら悲しさなどという感情をバネにして、言うなれば自分を含めての人間存在のはかなさ、有限性そのものへのそこはかとない感情、いや一種の「怒り」さえ含めての「感情」が立ち上がっているのだ。
お笑い風に言えば、「違うかっ!」。ところで今回の『青銅時代』には書けなかったが、編集長にはいつか詩を書く、と空約束をしてしまった。彼には言わなかったが(恥ずかしくて)、総タイトルは「介護詩篇」を用意している。(なに!聞いてないよ!誰だ、私に逆らうのは? おいおい内輪でもめるなよ)。で、もしそんなものを書くとしたら、いわゆる「詩」の形式で書くのか、それとも「散文詩」でいくのか?と迷っている。今のところは「詩」で、なぜなら「散文詩」だと生々し過ぎるから。それなら「詩」と「散文詩」はどう違う? うーん、難しい。今はよう答えきれんとね(それどこの方言?)。