このごろはすっかりペソアの虜になっているようなことを書いてきたが、正直に言うと彼の悲観主義と言っていいのか、あるいは彼の厭人癖・人間嫌い、要するにかなり暗い世界観に一方では惹かれながらも、もう一方ではこのままどっぷり浸かってしまうことにためらいを感じてきた。ただ救われるのは、これはポルトガルやスペインそしてイタリア、つまり南欧に共通した特徴だが、そうした悲観主義、厭世主義、あるいはもっと先の虚無主義にも、なにがなし明るさが残っている。つまり底なしの暗さではなく、どこかからか光が差しているのだ。
どちらにせよ、ペソア的世界にどっぷり浸かるには、私の中にある楽観主義、といったら格好いいが、要するにかなりの程度のいい加減さ、なにごとにも徹底することを嫌う常識主義が邪魔をする。
それで、とはまた変な言い草だが、ペソアお読みながら、いつもA・マチャードのことが頭にあった。現に彼の詩集と『フアン・デ・マイレーナ』、とりわけ後者を読むことは、スペイン思想の勉強から離れていたここ数年、唯一スペイン語に触れる機会でもあった。かといって、マチャードの読み方もペソアの場合と同じで、時おり気の向いた箇所をゆっくり読むだけだったが。
ところでA・マチャードとマイレーナの距離、つまり作者と偽作者(アポクリフォ)の距離は、ペソアとソアレス、つまり作者と異名者(ヘテロニモ)のそれよりはるかに近い、と思う。ただし両者、すなわちマチャードにしろペソアにしろ、偽作者と異名者をかなり真剣に造形しようとしている。たとえばマイレーナは1865年セビリアに生まれ、1909年にアストゥーリャ県のカサリエゴ・デ・タピアで死ぬことになっている。つまり作者のマチャードより十歳年長で、彼よりずっと前に死んだことになっている。つまりマチャードがマイレーナを着想したとき、マイレーナはすでにこの世におらず、したがって彼の著作ならびに事跡はすべて遺稿そして過去というわけなのだ。
と、ここまで書いて、下から年越しそばを食べるからと声がかかった。パパ(つまり私)直伝の年越しそばだが、嫁は私より上手に作るようになった。今晩は夕飯が二回になったので、愛が上機嫌である。
(そばを食べ終わったのが九時半、それから風呂に入るという大仕事があり、そして妻を寝かせてぼんやりテレビを見てから、パソコンに向かったのだが…)
昨日に続いて、また…あっヤバイ、シンデレラじゃないが、あと数秒で…あゝ、とうとう新年になってしまいました。とりあえず、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。