(子どものころ…)
( I 氏訳)
わたしのドアをあのように
いつまでも叩く人は
知ってのことか、わたしのなかで
感覚する魂の死んでいるのを。
わたしが 夜の訪れた時から 魂の
通夜をしているのを知ってのことか、
なにものの通夜もすることのない人の
あの虚ろで空しい熱意をこめて。
わたしが耳の聞こえぬのを知ってのことか。
知っているにしろ知らぬにしろ
ただひとり愚かしくもあのように
なぜ叩くのか、この世が終わるまで。
(S氏訳)
ぼくのドアを こんなにも
執拗に叩くひとは
ぼくのうちに感じる魂が
すでに死んでいるのを知ってのことか
夜が訪れたときから
魂の通夜をしているのを知ってのことか
虚無の通夜をする者のように
空虚で無為な気遣いのうちで
ぼくの耳が聞こえないのを知ってのことか
知っているにせよ 知らずにいるにせよ
なぜ こんなにも不合理に叩きつづけるのか
世界が終わるときまで
平沼氏の見解
英語の sense の訳「わたしのなかで/感覚する魂」(I)――「ぼくのうちに感じる魂」、いずれかと言えば後者の訳の方が分かりやすい。ただ何か、センテンスが棒状。それなら、「知ってのことか、ぼくのうちに感じる魂が…」でしょう。I訳のほうが次連以降を生かしていると思われます。いずれにせよ、この詩は、20世紀前半の抒情詩の名品の資格をそなえていると思います。
これと関係はないですが、ガルシア・ロルカの「窓」(薔薇?)を思い出しました。ペソアもその本質はすぐれた社会派詩人なのでは? 総じて社会派のほうが叙情が切れるようです。
(クレスポ訳)
El que llama a mi puerta
tan insisitentemente
¿sabrá que ya está muerta
el alma que en mí siente?
¿Sabrá que yo la velo,
cuando es noche cerrada,
con el vano desvelo
de quien no vela nada?
¿Sabrá de mi sordera?
¿Por qué sabe o no sabe
y, absurdo, llama afuera
hasta que el mundo acabe?
貞房試訳
かくまで執拗に
私の戸を叩く者よ、
知っているのか、私のなかで
感じる魂がすでに死んでいるのを
漆黒の夜の帳のなか
夜伽とは無縁の私が、
知っているのか、ただ空しく
寝ないでいるのを
耳しいであると知ってのことか、
なのになぜ戸を叩く
馬鹿の一つ覚えのように
世の終わりまで
貞房の見解
20世紀前半の抒情詩の名品ですか。私は詩についてはまったく無知に近いので、貴兄がおっしゃるとおりなのでしょう。ところでこの詩の思想的背景もしくは内容ということでは、どうでしょう。ペソアには『不安の書』以外の(スペイン語訳ではの話ですが)散文作品に『神々の帰還』というのがあります。それなどをぱらぱらと読んだ限りですが、彼自身いくつかその訳を試みているように、(もし強いてレッテルを貼るとすれば)、神知論者(theosophist)あるいは新・異教徒(neo-pagan)と言うべきでしょうか。いずれにせよ、キリスト教からは大きくはずれています。思想というより心情的にということであれば、私には虚無主義者、悲観論者のように映ります。
そんなことを考えながら、私もあえて訳してみましたが、まったく自信がありません。ただI訳でもS訳でも「夜の訪れ」となってるところは、スペイン語訳では noche cerrada、つまり直訳すれば閉ざされた夜、闇夜です。ポルトガル語ではどうなってるのでしょうか。
ともあれ、戸を叩く、などは新約聖書のキリストの言葉「叩けよ、さらば開かれん」(ルカ、11-9)を想起させますし、「通夜をする」はスペイン語でもポルトガル語でも velar ですが、これは日本語の通夜、つまり死者の亡骸の側で終夜祈願する、という意味もありますが、それよりも騎士叙任のまえに終夜武具の前で祈る、の方の意味が強いのでは。つまり理想を高く掲げてそれに殉じる姿勢。
要するに神にも理想にも殉じるつもりも無い自分への、自嘲を含めての苦い決意表明ととらえているのですが、どうでしょう。だからわざと「通夜」という言葉を避けました。