そもそもこのモノディアロゴスは、スペインの作家・思想家ミゲル・デ・ウナムーノのひそみに倣って「エッセイとか小説とかのジャンルを超えて、書き手の自由な自己表現の場」であると一応の自己規定はしているが、その内容がいつも身辺雑記に類するものであっては、書く方も読む方も飽きがくるだろう。いったいいつまでこんなことを続けていくつもりか、と時折考えてしまう。
そんなおり、いわゆる児童文学というものが視界に入ってきた。すでに話したとおり、アマゾンの密林に入って、目の前に現れる懐かしい、そして時には珍奇な、一応はこども向けの書物を次々と獲物袋に溜め込んでいったのである。それはむかし何度か夢で見た至福の体験にどこか似ていた。つまり誰が落としたのか、道の真ん中に泥にまみれて、それでも光沢を失わずに陽光に照り映えている十円硬貨や、時に小振りながら使いでのある百円硬貨(銀貨だ!)を必死に拾い集めている心境である(つまり新本だったら千円や二千円はする本が、手数料を別にすれば一円で手に入るのだから。夢の中の獲物が高価な宝石類でないのが、我ながらなんともいじらしい、いや、いじましいが)。
「鉄仮面」、「あゝ無常!」「トム・ソーヤー」「ハックルベリー・フィン」、「宝島」、「三銃士」……そのうち中学時代の同級生で童話作家のわたりむつこさんの「はなはなみんみ物語三部作」なども手に入り、そしてミヒャエル・エンデにたどり着いた。「童話」、「おとぎばなし」などいろいろ呼び方があるのだろうが、要するに空想力、もっとかっこよく言えば想像力の自由奔放な飛翔の文学である。エンデにはそのファンタジーの背景あるいは底部に、あらゆるものを根源から見直すしたたかな思想があった。たとえば『モモ』の中心的テーマは「時間」であったり、ときに「金(かね)」に代表される人間の経済活動であったりする。いずれも、それこそ「空気」のように、ひとはそこに何の疑念も抱かず、すでにそのようにあるもの、として使い、浪費してきた。しかし実際は、それらに使われ、振り回されているにもかかわらず。
戦争とか平和に対して既存の思想や文学が無力である現代にあって、もしかすると「児童文学」というジャンルで静かに、そして地道に続けられてきた表現形式に、現状打開の可能性が隠されているのかも知れない。いやもっと正確に言うと、「児童文学」という表現形式そのものの中に可能性が潜んでいるのではなく、その読者である子供たちにこそ世界変革の芽があるのだ、ということであろう。つまり子供たちの心、魂の中にこそ希望の萌芽があるわけだ。
大人たちを見限ってしまえ、と言っているのではない。なぜなら大人にも、偏見やゆがんだ常識に曇らされた魂のどこかに、まだ「こどもの魂」がわずかなりとも残っている可能性があるからである。たとえばこの私の中にだって。もしもつとめて心を静め、目を凝らし、耳をそばだてていくなら、ふだんはやり過ごしている現象やものの中に何かが見え、何かが聞こえてくるかも知れないのではないか。
もっと具体的に言うなら、私も私のモモに出会い、彼女の心や眼を通して現れてくる世界をたどることができるかも知れない……うーん、自分でも何を言っているのか、何をしようとしているのか分らなくなってきたが、とりあえずは「アリス・イン・ワンダーランド」に倣って、名前もまだないその子に(とりあえずは私の孫たちのだれかれに)、ささやかな私の文庫の本たちの魅力や面白さ、楽しさを、分りやすく語り聞かせる(つまり「アリス・イン・ライブラリー」である)ということなら出来そうなのだ。
残された時間の中では、もしかして旅をしたり新しい国や景色を見ることは出来ないかも知れない。その可能性いやその不可能性はほぼ百パーセントに近い。しかし手持ちの本の世界や映像の世界になら、お金も体力も労せずに、いつでも入り込める。
そんなことを、このごろ本気に考え始めたのである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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