光と風のきずな

ビデオテープからDVDへの変換作業はまだ終わらない。四分の三くらいまで来たと思うが、ここまで来たら最後までやるしかない。ところで今日終えた分の中に『光と風のきずな』(1983年)が入っていた。赤沢典子さんのスペイン留学の記録映画である。
 いろんなことが記憶の底から浮かび上がってきた。制作は石森史郎プロダクションだが中心的役割を演じたのは上田偉史(きよし)さんである。初めのうち彼とはほとんど接触がなかった。頻繁に会うようになったのは、典子さんが帰国して映画の編集が始まってからではなかったか。ともかく不思議な男である。彼の女ともだちの陶器店(何焼きだったか忘れた)の店先で、典子さんの恩師ということでインタビューを受けたこともある。結局は使われなかったのでフィルムの無駄使いに終わったが。
 彼の別の女友だちの家にも、なぜか何回か呼ばれたこともある。そこで、どういう繋がりであったかは忘れたが、元最高裁判所長官の息子さんのミネカイヅカ氏にも会った。また別の日、彼女の留守のとき、これまたその理由きっかけは判然としないが、彼女に無断で厚手の大きな、明らかに高価なコップをもらったこともある。たしか割れずに下の台所のどこかにあるはずである。
 私たちが清水に越してからも家に訪ねた来た。フラメンコの小島章二さんの公演を日本平のホテルでやる企画を進めていた時だ。結局それは実現しなかったと思う。ともかく映画作りだけでなく、いろんなことを企てていた。そうだ、私たち夫婦が、有名人たちに混じって(まぎれ込まされて)バリ島までの超豪華な船旅をロハでしたのも、彼のそうした「たくらみ」の一環だった。
 写真家のH氏、売り出し中の若手俳優のT. K、確か今は有名なお笑いコンビの一人の奥さんになっているH. S などなどと一緒のグループで、羽田から香港-シンガポールに飛び、そこからスウェーデン船籍の「ソング・オブ・フラワー」号で、バリ島への旅である。
 あれはバブル末期だったのか。豪華客船でバリ島まで、というツアーのいわばお披露目航海だったと思う。つまり上田氏のはからいで、場違いの私たち夫婦が、超豪華なスイートルームを与えられ、唯一の義務は船長(金髪碧眼のイケメン)主催の毎日の晩餐会にフォーマルスーツで参加すること、という夢のような毎日。
 旅行から帰ったその夜の食事時、美子がとつぜん呼吸困難になって、救急車で病院に運ばれたことがある。タイやヒラメの舞う贅沢三昧の竜宮城と、八王子の陋屋の粗末な夕食とのあまりの違いに愕然とし、過喚気症候群にかかったのである。ともあれその上田氏とはここ十年ほど音信が途絶えている。いま何をしてるのだろうか。むかしのように芸能界でまだ仕事を続けているのだろうか。
 インターネットで検索しても、彼がむかし出した『熱球のポジション 日米大学野球の青春譜』と言う本のことしか出てこない。そうだむかし彼は早稲田でキャッチャーをしていたはずだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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