いまさら弁解するのも変な話だが、あのジュラール・フィリップの話、日ごろ自分の容貌に自信を持っていたので、その確認が得られたというのではない。つまりかなりの年齢まで、私は自分の容貌に人知れぬコンプレックスを持っていたわけだ。逆の例になるが、褒め言葉とはまったく反対の言葉が長いあいだ棘のようにつき刺さったままであったことからも説明できる。
小学一年生から五年生秋までの帯広時代、時おり食料調達に、兄と一緒に週末、上士幌の奥の開拓村の祖父母の家に行ったときのこと。自分では格好いいつもりで運動会の名残りの赤帽をかぶっていたら、土地の子に「なんだみったくない!」と棄て台詞を吐かれたのである。ショックであった。いちおうは町の子の私が、ど田舎の子にそのダサさを罵倒されたのである。
考えてみると、そのころは栄養不足から来ると思われるシラクモがあったし、さらには、自分は満州時代、橋の下で拾われたマンジンの子ではないか、という底知れぬ疑惑にその当時まで苛まれていたのである。
まっ、それからかなりの年月が経ってはいても、あの時食堂で言われた褒めことばは、まさに干天に慈雨のごとく、私の心に沁み込んだ。そしていささかの自信を胸に、それから数ヵ月後、広島の修道院の門をくぐったのである。
ただ、今もって謎なのは、なぜジュラール・フィリップか、だ。確かにあのころは痩せていたし、聖職者の道に進もうという、それなりの真剣さというかオーラはあったろうが。彼の主演映画の『肉体の悪魔』や『花咲ける騎士道』はそのころ、つまり昭和36年には、もう上映されていなかったはずだし……ほらほら、ほんの冗談に言われたことに、これほどまでにこだわって……そうでした。これもあれも私の貧しい青春譜の中の一齣いや一音符でした。
ここまでこだわったのならもう一つ。なぜ東仙台のあの坂道に座っていたのか? それも今になっては謎であるが、唯一考えられるのは、私の町はそれよりずっと南の、福島県の原町、そしてそこの教会の、カナダ人のドミニコ会士エベール神父さんが、月一度くらいの割合で東仙台のドミニコ会の集まりに出かけることになっており、古いジープでの道中の道連れにと、ときおり同道を求められていた。そんな行き帰りの中の出来事ではなかったか。
井上ひさしさんに話を戻す。彼の小説家、劇作家としての活躍は他の追随を許さぬ態の徹底したものであったと思うが、今になって言える彼の晩年は、さらに反戦思想の実践において際立っていた。私のように気楽な立場から、つまり無責任な外野からの発言ではなく、それを演劇のなかに形あるものとして表現した。と言って劇作品を反戦プロパガンダとして利用したと言ったら間違いだ、登場人物の中にそれを肉化し具象化したのである。
先日の朝日新聞で、大江健三郎氏は井上氏の死に触れて「命ある間は正気でいなければ」という一文を寄せている。わたしなどとは比較にならぬほどの喪失感を味わっておられるのであろう。これまでのすれ違いはともかく、以後私に残されている日々、彼の遺志をなんとか受け止める努力をしなければなるまい。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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