70年も生きていれば、偉い人や有名人に会う機会は何度かあった。ただ何を基準に偉い人というのか、改めて考えてみると難しいが、社会的・政治的に偉い人というのであれば、日本で言えば天皇・皇后両陛下となろうか。東宮でお会いしたことがある。と言っても当時はまだ皇太子・皇太子妃時代であったが。美智子妃殿下には言葉もかけていただいた。静岡時代だから、1980年代中ごろのことである。
そのときよりずっと前にもうひとり偉い人に会った、というより見かけた。小学校六年生のときだったか、兄と初めて東京に行ったときのこと。迎えてくれた叔父に案内されて日比谷近辺を歩いていて、ちょうどGHQ(連合国軍総司令部)、つまり第一生命ビル前に差し掛かったとき、急にあたりが騒々しくなって、MP数人が通行人を規制し始めた。何事かと思って、正面玄関の方を見ると、おりしもマッカーサー元帥がお付のひと数人と階段を下りてくるところだった。コーン・パイプを咥えていたかどうかは覚えていない。
いやいや、偉い人に会ったことを自慢するつもりではなく、むかし見かけたその人が本人だったのか、それとも似た人だったのか、いまだに謎の、ある映画俳優のことを語りたかったのである。大学一、二年のときのある日だった。通っていた大学近くの国会図書館(今は迎賓館?)の路上で、ちょうど信号が赤になったとき、皇居の方から走ってきた一台のオープンカーが止まった。運転していたのはモンゴメリー・クリフトに酷似した一人のGIである。いやアメリカ兵の略装を着てはいたが、モンゴメリー・クリフトその人ではなかったか、と今でも信じている。
本名エドワード・モンゴメリー・クリフト、1920年ネブラスカ州オマハ生まれ。13歳でブロードウェイの初舞台を踏み、1948年にジョン・ウェイン主演の『赤い河』で映画デビュー、その後『陽のあたる場所』、『地上より永遠に』などに主演し、アメリカ人俳優には珍しい陰のある二枚目として活躍したが、1966年に心臓発作で死んだ。
路上でその人に会ったのは、昭和33-35年ごろ、つまり1958年から1960年ごろだから、もしモンゴメリーその人だったとしたら、1956年に交通事故に遭って顔面を負傷し、整形手術を受けるも顔の一部が動かなくなった後のことになる。
高校時代から大学時代にかけて大好きだった俳優は、『波止場』(1954年)のマーロン・ブランドと『私は告白する』(1953年)のモンゴメリー・クリフトだった。『エデンの東』(1955年)のジェームズ・ディーンはその甘えたような演技がいささか過剰であまり好きになれなかった。
ネットを調べてもモンゴメリー・クリフトがそのころ来日したかどうかは不明。それにGIの服を着ていたのも変だが、私の勝手な推理では、そのとき彼はお忍びで来日し、マスコミなどに気づかれずに歩き回るには、そのころ東京の街にゴマンといたアメリカ兵の格好をするのが一番だったのではないか。それにふつうのGIが派手なオープンカーを乗り回すだろうか。
ともあれ、『私は告白する』の神父役の彼に憧れたわけではないが、そのときより二年後に、私は神父になるべく広島の修練院の門をくぐったのである。「ウィキペディア」によると、「現在ではバイセクシャルであったことが知られている」とあるが、そんなことはどうでもいいことで、彼がいまだに好きな俳優の一人であることに変わりはない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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