井上ひさしの文庫本は結局38冊あった。暇なときに(といっても正確に言えばいつも暇だが)合計13冊の合本にした。なるたけ年代順に、そして本の高さや幅が合うように同一出版社のものを、たいていは3冊ごとに合わせたのだ。それにいらなくなった本の箱を解体した厚紙(おそらく100枚近くは溜まっている)で表紙をつけ、全体を布で被い、最後に新たに印刷した著者名・題名を背に貼り付けるのである。
文庫のときのカバーや表紙は剥いで棄てるのだが、たとえば安野光雅さんの絵などは切り取って布表紙に貼り付けたりする。そんな風にして作った合本のうちの一冊(『家庭口論』、『十二人の手紙』そして『悪党と幽霊』)の真ん中あたりにあった「ペンフレンド」を何気なく読んでいたら、それが意外に面白く、最近にはないことだが一気に読んでしまった。といって19ページに満たない小品であるが。
先日も書いたように、井上ひさしの本は買うだけは買っていたが、そのほとんどは読んでいなかった。この『十二人の手紙』も、今回一緒になった他の二冊同様、軽いエッセイと思っていたのだが、どうしてどうして立派な、それもとびきり面白い小説だった。題名が示しているように、全編が手紙文で、書き手は田舎出のOL、その母親、弟、同郷の友だちのように、まったく普通の人のフツ―の手紙なのだが、それが名文で書かれた小説と同程度に、いやもっと面白いのである。
十二人のうちの一人の物語を読んだだけだが、それでも他の十一人の手紙も間違いなく面白いだろうと推測できる。さきほど普通の人のフツーの手紙文と書いたが、書き手としては実はそれがいちばん難しいのではないか。書き手の教養が邪魔して、普通の人のフツーの手紙がうまく書けないのである。もちろん井上ひさしは現代日本を代表する第一級の教養人であり、その多方面にわたる該博な知識は他の追随を許さない。遅筆堂文庫に残された20万冊の蔵書は、一度は彼の脳髄を擦過したのである。
「ペンフレンド」のどこがどんな風に面白いのか、その筋を紹介しなければ伝わらないと思うが、その面白さはフツーの手紙に見事に示される井上ひさしの、人間という面白い生きものを観察する際の実に柔軟な表現だけでなく、次に何がくるか予想もつかないほどの「意外性」にある。だから極上の推理小説のように、その筋を紹介することは控えたいのである。
読者を楽しませようとする井上ひさしのサービス精神は、あの太宰治をはるかに超えている。多様かつ多彩な彼の作品の、その多さに惑わされてしまうかも知れないが、間違いなく彼は戦後日本のもっとも優れた作家の一人なのだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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