予想どおり『弱い神』に難渋している。といって雑用をこなしながら、時折机に坐って少し読んではまた別の雑用をする、といった具合だから進まなくてとうぜんだが。ともかく読書のスピードが極度に落ち、集中力もかなり散漫になっている。小川さんの小説は、井上ひさしの場合のようにはいかない。
ただし今回は、彼の文章の読みにくさというより、作中人物の相関関係があまりに錯綜していて、それについて作者はまったく意を用いていないことから来る。途中から彼らの関係を紙片に書き出す始末。
今日は80ページほど進んだに過ぎないが、それらは全体を長編小説とみた場合には章に当たるわけだが、文体は一貫している。つまり解説者によればそれがこの長編の独創的な点というわけだが、いわゆる地の文、つまり小説の流れを構成する状況描写や筋運びの文章がまったくなく、すべて会話体で成り立っているのだ。それも大井川流域の方言なので、他所者にははじめちょっと戸惑いがある。
登場人物の相関関係が分かりにくいのは、まさに今述べた事情からきている。なるほど小説全編を「語り」だけで通すというのは、確かに画期的な手法かも知れない。このことに関して、長谷川氏は小川さん自身の次のような言葉を引用している。
「……たとえば私は、慶応二年生まれの祖母をモデルにして小説を書きたいと思っていますが、祖母を私の一存でこしらえたくありません。 彼女に話してもらいたいのです。亡き人に話をさせるとは、どういう ことなのか。一見非条理な試みに思えますがその手順を考えるのが文 学なのでしょう。作者が聞き出そうとするなら、それも可能だと思えるのです。」
「……作中の会話も独白も、作者に聞こえてきた言葉を、右から左に読者に取りついだだけ、ということになります。私には、この行きかたが 好ましいのです。」
つまり小説は、祖父をモデルに新たに造形されたという紅林鑑平をはじめ、すべて死者たちの「語り」から成り立っているのだ。さらに言うなら、従来、小川国夫は視覚の人、眼の作家と見られてきたが(私自身もそのように主張してきた)、この作品では、聴覚の人、耳の作家に変貌をとげているわけだ。
ともあれまだ全体の五分の一にもたどり着いていない。読み通すまで、いましばらくかかりそうだが、そのとき以上の指摘や評価がどこまで当たっているかどうか、改めて問うてみるつもりである。