夕刻の香港の街角に立つとする。するとさまざまな物象が眼に飛び込んでくるであろう。車輪を軋ませながら通りすぎる路面電車、買い物袋を胸に抱いて急ぎ足で家路を急ぐ中年の女、寿命が来たのか間延びした間隔で点滅を繰り返すネオンサイン……そのとき写真家は何に焦点を合わせてシャッターを切るのか。おそらく彼はそれら物象の一つ一つのものそれ自体への興味ではなく、それらすべてを含んだ全体的な構図の、ある角度、ある枠組みの中に、彼を捉えて離さない何かを感じて、その角度から、その枠組みを切り取るのである。
その何かとは何だろう? おそらく写真家自身も説明のできない何か、強いて言葉に表せば気配のようなもの、いや違う、気配よりはるかに具体的で現実的なあるもの、言葉には表せないが、しかしそれ以外ではありえない何かが写真家の眼を釘付けにする。
表紙を飾る写真(本文中にも同じものがもう一枚ある)には、中央に四脚の不ぞろいで薄汚れた椅子が横一列に並んでおり、すぐ後ろの鉄柵から見えるのは、右側にどこか校舎らしき建物、そして真ん中に二本の太い木の幹、左側には裏山へと通じる石の階段である。写真家は何を写そうと思ってシャッターを切ったのか。今さっきまで座っていた人間たちの温もりを感じさせる椅子だろうか。確かにじっと見ていると、四脚の椅子は何か人間じみた様子をしている。
しかし私の推測では、写真家が引かれたのはそれらすべての物たちが全体として醸し出す何かだと思う。われわれでも時にそういった感覚を持つことがある。日ごろ何の注意も引かない物たち、たとえばわが家の裏庭から物置へ通じる小道から見える物たちが、ある角度、ある高さから不意に見せる思いがけない姿に、われわれの心がロック・オンされる時。そのとき、なにかが腑に落ちる。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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