今日は八月の第一土曜だが、普通は第二土曜のものが繰り上がって今日が「島尾敏雄を読む会」の日だった。いつものとおり昼食後、美子を連れて旧街道を車で行った。参加者は五人、いつもの数である。なにかご不満でも?
だれも言ってくれないので、自分で言うしかないのだが、毎月一回の私の話、毎度とはいかないが、時たま、あっいい線いってるぞ、と思うときがある。つまり確かな鉱脈を掘り当てたという感覚である。もちろん毎度ではない。
文学者の話は、ふつうあまり面白くない。書いたものを読む方がずっといいと思うのが通常である。これまで私が聞いて思わず、うまいな、と感動したのは、もうずいぶん昔になるが、江藤淳が漱石について話したときである。『漱石とその時代』という彼の漱石論にも感心したが、彼の話はさらに面白かった。もっともそのとき以後の彼の言動には全くついていけず(とりわけ埴谷雄高さんとの論戦あたりから)、そのうちすっかり読まなくなってしまったが。
そんな偉い人と比較するわけじゃないが…いや待てよ恐れ多くも比較しようとしたんだべさ。んっ、だからこの話はここまで。
で今日の話は、いささか型破りのものとなった。要するにここ二日ほど扱ってきた島尾伸三について語ったのである。結論めいたものにはまだ至っていなかった。話をしていくうちに何とかまとまるかな、と甘い考えで話し始めた。写真集は持参したが、みんなには参考までにと、表紙をコピーしたものを配っておいた。
文章表現では「死の棘」の呪縛のせいか不自由な感じを与えるが、こと映像表現において伸三氏は独自の世界を築いている。しかし父・敏雄氏と、とうぜんのことだが、きわめて似た世界を表現している。とりわけ、敏雄氏の最後の不思議な短編というか掌編群の世界ときわめて似た世界を表現している。なんの変哲もない現実の一部を切り取ったような作品だが、描かれたものより描かれていないものが圧倒的に意味を持つような世界、存在が不在によって際立つような世界、その描き方が酷似しているのだ。だがこれは文章表現の場合のような呪縛とはまるで違う関係である。つまり呪縛ではなく影響というべき両者の関係なのだ。
さてここで最後の難問にとりかかろう。つまりなぜそれを書くのか、なぜそれに向けてシャッターを切るのか、という問題である。ここで唐突に思い浮かぶのは(ウソ言え!初めからそのつもりだったくせに)、もう三十三年も前に書いた「島尾敏雄における生の構造」という文章である。これはこれまでまともに評価されてこなかった島尾敏雄論だが、自分で言うのもなんだが(そらまた自画自賛が始まったゾ)島尾敏雄論として出色のもの(自分としては)である。そこでスペインの哲学者オルテガの言葉が引用されている。
「生は引きとめることも、捕えることも、跳びこえることもゆるさない一つの手に負えぬ流れである。成りつつあると同時に、手のほどこしようもなく存在することをやめて行くものである…それはちょうど、それ自体はとらえることのできない風が、やわらかな雲のからだの上に身をおどらせ、それを引きのばし、よじり、波打たせ、とがらせるようなものである。われわれは視線を上げて、綿毛の形をした雲の中に、風の襲った跡を、その激しくも軽やかなこぶしの跡をみるだけなのだ」
何を言いたい? 島尾敏雄にしろ島尾伸三にしろ、彼らが描きたかったものは「生」「生きることそれ自体」なのだが、表現されたものは、「生の通り跡」だということである。なぜ彼らはそれに惹かれるのか?ここまでくれば、「島尾敏雄における生の構造」をさらに引用する必要がある。
「なぜ島尾敏雄は自己の生を執拗に掘り起こし、自己の生のかたちをしきりになぞろうとしているのか。それは、そこからしか救いがやってこないからである。オルテガ思想の核を形成する言葉をもう少し引用しよう。 <われわれはありのままの自己の環境、すなわちまさに限界と特殊性を持つ自己の環境、のために世界の広大なパースペクティヴの中の正確な位置を捜し求めなければならない。…つまるところ、環境を再摂取することが人間の具体的な運命なのだ>」
と言うことは、島尾伸三が描く世界は、生の通り跡ということになる。きわめて特殊な世界と言うのか? いや生はきわめて個別的なものでありながら、またきわめて普遍的なものである。その極めて個性的な世界は、まさに<生>の通り跡であるがゆえに、もしもその特殊性の外観にとらわれずに参入する者に、深いところで共鳴音を発するからである。
そんな話をしてきたのだが、果たして分かっていただけただろうか。たぶん無理だろうな、自分でもまだ釈然としないところが残っているのだから…疲れてきたので、また別のときにゆっくり考えてみます。お粗末でした。