シャモについて

安藤昌益、その伝記的事実からして諸説があっていまだ定まらないという。ほぼ定説となっているのは、1703年(元禄16年)に生まれ、1762年(宝暦12年)に死去ということらしいが、『統道真傳』執筆は彼の59歳ころという。
 先ほど引用した箇所のすぐ後に「(彼らは)日本人を見ればシャモというが、これは這麼(シャモ)・コレハオカシイ、ひょんなもの、という意味である」という文章が続く。岩波の註には、「這麼は、中国の口語(俗語)で chemo と発音し、このように、の意味の語。昌益はこれをアイヌ語と混同している」と書いている。
 18世紀中葉の日本、しかも本州の北端の八戸で、中国語の知識がどれほどのものであったか、私にはさっぱり分からぬが、しかし「これをアイヌ語と混同している」という説明の方がさらに謎めいている。つまりなぜ混同したのか、という方がよっぽど不思議なのだ。
 アイヌの蜂起については、中公版『安藤昌益』の註によれば、『松前志』に次のような報告があるという。「寛永二十年癸未春、西部蝦夷叛ス。承応二年癸巳春、東部蝦夷蜂起ス。寛文九年巳酉夏、東部支不在利蝦夷叛ス」つまり三度の蜂起が記されているのだが、こんな簡単な説明の中にも、私に基本的な知識が欠落していることにウロタエてしまう。つまり昔の暦の数え方が分からないのだ。癸(ミズノト)が十干の十番目で、それが十二支の8番目の未(ヒツジ)と組み合わされたらどういう意味となり、さらのその後に春が付くとどうなるのか、それからして分からないのである。
 古希を迎えた男がこのザマだが、事実は事実として自分の無知を潔く認めるしかない、先輩の手紙の末尾などに、さりげなく十干十二支で日付を書いていらっしゃる方がおられる。私の年代でそれをする人に会ったことはないが、しかしどこかで一念発起して、その使い方をマスターした人がいるに違いない。さて私はどうしよう?
 それはともかく(おいおい、逃げを打つ気か?)、日本人を指すアイヌ語がシャモであるという事実は、いろんなことを考えさせる。アイヌから見てどこがオカシかったのか。やたら威張り散らして喧嘩っぱやい奇妙な人間と映ったのか。まさか軍鶏(シャモ)と同一視したわけじゃあるまい?鶏のシャモはシャム(現在のタイ)渡来の意味からできた言葉だそうだが、言葉としては江戸初期からあったらしい。
 となると、アイヌ人が自分たちの「オカシイ」という意味の言葉を、軍鶏と重ねて日本人を指す言葉にしたのでは? そうねえ、これを一概に妄説として否定することができないんじゃない? だってそのシャモの子孫、つまり現代の日本人の中に、すぐトサカにくる性向をもった輩がわんさといるんだから。
 あんまり暑いので、つい憎まれ口をたたいてしまいました。もちろん瞬間湯沸かし器の異名をもつ拙者も、その輩の一人でごぜえやす。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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