悲愴とも凄絶とも言える『死の棘』の世界から現実に舞い戻った読者は、一家がそのあと南の島でゆっくりと傷を癒していったことを知って、安堵の胸をなでおろす。そしてトシオが寡作ながら次々と作品を発表し、有名な文学賞のほとんどを受けるほどの高い評価を受けたことも知っている。確かに六十九歳の死は早すぎたが、でも作家として充実した生を全うしたはずと思っている。
またミホも、その後独特な作風の小説を書いてその非凡な才能を開花させ、また映画化された『死の棘』を通じて広くその存在を知られるばかりでなく、ロシアの映像作家によって自身主役を演じるなど、夫のトシオ以上に世間の脚光を浴びて幸福な晩年を迎えたことを知っている。
今日の午後、『検証 島尾敏雄の世界』を初めてまともに読んだ。だいぶ前から手許にあったものであるが、読まずじまいだったのである。まともに読んだといっても、正確には長男の伸三さんとその奥さんの登久子さんのものを真剣に読んだのである。もちろんこれまでも伸三さんの文章はかなり読んできた。しかし今日読んだ伸三さんの文章に感動した。一見童話風の飾らぬ文体で書かれており、また落書きをしました、と卑下とも韜晦ともつかぬ言い訳をしているが、どうしてどうして、私には胸にずしんと響く文章であった。
幼い二人の兄妹が、病院生活をしている両親より一足先に、母の故郷である南の島に「連れてこられた」ときのことをこう書いている。
「そんな奄美に来て間もない頃、…日曜学校の帰りに、名瀬の町外れの桟橋へ行ったことがあります。…灰色の空の下の強い風と波しぶきに当たりながら…マヤに<おとうさんとおかあさんに会いたい?>と聞くと、マヤは首を横に振りました。
安心しました。マヤは小さいから寂しいのかと思ったのですが、<もう、わしゅれた>とも言ったからです。マヤは未来が判るくらい賢かったので、大事なことは相談するのです……
……(中略)……
マヤは歌って踊って毎日とても楽しそうで私は幸福でした。それなのに、おとうさんとおかあさんへ出した手紙に、おとうさんとおかあさんに会いたいです、と、嘘を書きました。そしたら、ふたりの大人は子どもたちと暮らしたいと言って、奄美へやって来てしまいました。」
『検証 島尾敏雄の世界』は志村有弘と島尾伸三の共編である。だからとうぜんここに収録されているさまざまな文章(作家論や作品論、資料などなど)にはある統一された意思があるのだろう。そう「検証」という文字がそれを示している。だが正直言って、伸三さんや登久子さんの文章は、島尾敏雄文学のいわば表向きのと言ったらよいのか、あるいは表層のと言ったら良いのか、ありきたりの「検証」を突き抜けて、いわば深層の「検証」に踏み入っている。
以前、どこかで、島尾文学の本質に迫るには、従来の島尾敏雄像の脱・神話化が必要である、などと、言っている本人にとってさえいまだ生煮えの表現を使ったことがあるが、要するに伸三さんの文章はまさにその脱・神話化を示しているのだ。しかし誤解がないようにすぐ付け加えなければならないのは、それはけっして島尾敏雄や島尾ミホの実像に迫る式の暴露であったり、その文学を否定することとは全く逆の作業であるということだ。
伸三さんの場合はともかく、私自身にとってその作業はここ十数年、必須のものとして意識されてきた、具体的な踏み出しがないまま無為の時間が過ぎてしまったが。青年時代に大きな影響を受けたもの、という意味では、対キリスト教体験の場合と同じである。つまりそれが私にとって何であったか、を深く知るためには、一度そこから離れてみる必要があったのだ(ただしキリスト教の場合は、またそこに戻ることはないであろうが)。
両親との距離を、すなわち自分たちが生きていくために必要な距離を必死に模索する幼い兄妹の姿が眼に焼きついて離れない。後年、よき配偶者を見つけた兄の場合はともかく、死ぬまで母親との生活を受け入れ、その決意に最後まで忠実であったマヤちゃんのことが今さらのように胸に迫る。
(考えてみれば静岡の大学から八王子の短大へと勤め先を移したのは、ようやく司書の仕事を見つけたマヤちゃんがその系列校でも同じ仕事に就けるように、との願いから踏み切ったはずだったが<最後の日々、そのことが敏雄さんにとって大きな喜びだったと聞いていたので>、途中根づかれ(?)して、やむをえなかった、と一応の言い訳は考え付くが、結果として以後すっかり気持を離してしまったことが悔やまれる)。
伸三さんや登久子さんの文章を読んで、実のことを言うと、島尾敏雄や島尾ミホがいままで以上に近しいものに思えてきた。彼ら自身、それと意識しないまでも、心底から何かを求めていたことを知ったからだ。そして唐突かも知れないが、オルテガの言う批評(この場合は作家論)の要諦が頭に浮かんできた。つまり真の批評は、その作家が成し遂げたものからではなく、彼が為さんと欲しながらも為しえなかかったものの中にこそある、ということ。
島尾敏雄論とて、残された作品から出発しなければならないが、本当に必要なのはそこからさらに進んで、彼が為そうと願いながらも為しえなかったこと、そして書こうと願いながらも書けなかった「幻の作品群」、の中にこそ求めなければならないということである。