マミヤシックスⅠ

井上ひさし夫人(いっときマスコミで有名だった好子夫人ではなく二番目の夫人)の実姉が米原万里であるなどと、あたかも前から知っていたような書き方をしたが、実のところ、現在の夫人ユリさんのこともその姉の万里さんのことも今度初めて知った。米原万里が著作家としても有名な人で、2006年、まだ56歳の若さで病死したことも知らなかったのである。
 それはともかく、今回はめずらしく『一週間』を読み続けている。この小説の主要なテーマに、主人公と親しい二等兵大橋吾郎が収容所内で撲殺された事件があるが、そのときの証拠写真を写したマミヤシックスIというカメラについてこう説明されている。「距離計と連動してフィルム面が移動するという独得の焦点合わせ機能を備えた、このマミヤ光機製作所製の高級カメラ…」
 このカメラのことなら私も知っている。戦争中、海軍の戦闘機乗りだった健次郎叔父が終戦後もしばらく持っていたカメラだからだ。後年、私が無類のカメラ好き少年になったのも(といって安いカメラばかりだったが)、この叔父のカメラのせいかも知れない。なにせ戦後のことである。カメラのような贅沢品より、まず食料の時代である。だからこそ叔父のカメラは一段と光って見えたわけだが。
 あのカメラはその後どうなったかが、なぜか気になりだした。たしか叔父以外の親戚の誰かの家で見たような気がするのだが、さてどこでだったろう。あのカメラは戦時中、パイロットの特権で安く手に入れたと聞いたことがある。ネットで調べるとそのカメラのデータが詳しく出ていた。マミヤシックスI、世界初のバックフォーカシング方式。距離計連動スプリングカメラ。発売年次、1940年(昭和15年)12月(昭和15年)。ということは、私たち家族が満州に渡った昭和16年5月、ちょうど博多の海軍航空隊にいた叔父が見送ってくれた時にはすでに世に出ていたわけだ。だが待てよ、あの時道路を走ってくる幼い姉を撮ったスナップ写真は、たしか島尾敏雄さんのカメラではなかったか。
 でも博多海軍航空隊ってどんなところだったのか? ついでにネットを検索すると、面白そうな本が眼に入った。寺村竹好著『敗残兵九十年の生涯』という本である。著者紹介を見ると、昭和16年4月に博多海軍航空隊にいた人らしい。さっそく夕食後、帯広の叔父に電話してみる。

 「あゝ叔父さん、突然つかぬことを聞くけど、寺村竹好という人知ってる?博多の航空隊にいた人らしいけど」
 「うーん、ちょっと思い出せないな」
 「丁稚奉公のあと夜間中学から佐世保海兵団、大村海軍航空隊、それから博多に行った人らしいけど」
 「あゝそれなら叩き上げの人だな。私が教えた人の中にいたかも知れない」
 「ともかく本が手に入ったら叔父さんに差し上げるわ。で、もう一つ聞きたいんだけど、叔父さんのマミヤシックス、あれどうなった?」(ほんとうはこの方が聞きたかった)
 「あれ?あれはもう持ってない。たぶん売り払ったかも知れない。ともかく今は持ってないよ」

 電話はそれで終わったが、確かにどこかの家で見たことがある。誠一郎叔父さん(健次郎叔父の長兄)のところだったか?みんな貧乏していた時代、他人の手に渡るより借金のかたとして兄に譲ったか? マミヤシックスの行方など調べてどうということもないのだが、ここまで来たら(?)もう少し追ってみるか。十勝の田舎町でクリニックを開いている従弟のMさんにいつか聞いてみようっと。
 このしつこさ、井上ひさしさんから伝染したんだろうか。ご苦労なことです。ちょっと恥ずかしいので先ほどは書かなかったのですが、実は井上ユリさんが編集した米原万里についての本や、彼女を特集した「ユリイカ」をアマゾンに注文したのです。まっ、何もすることがなくて元気をなくすより、いろいろ探しまわる方が頭の健康のためにもいいかも知れません。

※後日譚 十三日夜、上士幌在住のMさん(つまり従弟の御史さん)から電話があり、やはり誠一郎叔父さんのところにカメラが移った一時期があり、それを使って撮られたかなりの数の写真が先日見つかったそうだ。ただしその後のカメラの行方は彼も知らないそうだ。ともあれこれで少しスッキリした。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください