今日は月に一度の浮舟文化会館での講座の日である。待ちに待った秋日和の一日。美子を連れて、旧国道を車で小高を目指す。しかし話すべき内容をすべて用意しているわけではない。いわば題名だけを頼りに、話しながら、そのとき浮かんだことをゆっくり話そうと思っている。この方があらかじめ細部に至るまで考えたときよりうまくいく場合が多い。
いや正直に白状すれば、いま現在、この方法しかないのだ。いうなれば当たってくだけろ、ではなく、砕けて当たる方法である。この言い方、いつからか事に当たっての自分固有の対処法と思っていたが、最近出た『島尾敏雄日記』の中に同じ表現が何回も出てきてびっくりしている。やはり島尾敏雄の影響を無意識のうちに受けていたわけだ。
そう、今日のテーマもまさにこの『島尾敏雄日記』をめぐってのものである。参加者は…いつものようにごく少数、おどろくほど少数である。張り合いがないと言えば嘘になるが(この言い方は大キライなのだが)、私としてはそれでへこたれるようなことはない。ますます熱をこめて話す。そこら辺の(どこら辺?)の講演会よりよほど内容の濃い、濃いだけでなく面白い話をしているつもりだが、もしかするとそれは私の願望が作り出した妄想かも知れない。
内容は特に用意してない、と言ったが、実はそれなりに準備はしている。たとえば『日記』に関しては、この「モノディアロゴス」でも再三にわたって論じてきたし、そして今朝方、用便のあとの又寝の中で、つまり夢うつつの狭間で、いくつかのポイントは考えついていたのである。さて話の内容をここで逐一報告するまでもないので、いくつかの論点だけを要約すれば、次のようになる。
以前、日記の存在はむしろ作品理解を阻害する、と言った。確かにその面を否定することはできないが、しかしたとえば『死の棘』の場合、現にこうして作者の日記がいくつも公刊された以上、それを無視することは不可能とは言わないまでも、少なくとも不自然となる。つまり作品だけを読んで満足(?)する一般的な読者(?)はいざ知らず、作品をさらに深く理解しようとする人にとって、これら膨大な日記群は、いわば乗り越えなければならぬハードルとして立ちはだかるわけだ。
戦後文学の高峰としてある意味で神話化されてきたこの作品は、これら日記群や肉親たちの証言によって、これまで層々と積み上げられてきた「神話」が壊されなければならなくなる。そしてその次の段階では、それらを視界に組み込んだ上で、いわばさらに高次のレベルでの読解作業を経なければならない。その作業こそ島尾敏雄文学の今後の課題となるわけだ。
たいへん困難な道筋と思われるかも知れないが、しかし私は最近の島尾伸三さんの文章を読んで、ある程度の道筋は見えてきているのではないか、と考えている。たとえば『検証 島尾敏雄の世界』に掲載されている伸三氏の、まるでグリム童話を読むような筆致の文章を読むと、『死の棘』という作品そしてその作者や登場人物たちを大きく包み込むなにか、が感じられ(それを愛という言葉で括ってもいいが)、その新たな広がりと深さを持つ「場」というか「意味空間」から、再度の読解作業が始まる、いや始めなければならない、と思うのである。
もっと人間的な表現を使えば、作者・島尾敏雄ははたして彼の死後、彼を愛する肉親たちが多くの思い返しの中で彼自身をどう理解し、そして多くの逡巡と内省の後に、結局は彼をどのように思慕しているか、に想像が届いていたであろうか、ということである。もちろん届いていなかったはずだ。だから彼のその欠落部分を読者が補いながら、新たな意味空間の中で作品を味読することが今後の課題となる。
と言いながら、私自身にその作業を敢行するだけのエネルギーが残っているかどうか、となると、無責任ながらはなはだ自信がないのである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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