最近では一冊の本を読み通すことなどめったにないのだが、今回は井上ひさしの『一週間』(全524ページ)を今日とうとう読み終えた。さてなんて言えばいいのだろう、当初に予想したものとはすこし違った印象を持った、とまずは言わなければならないであろう。期待はずれ? そうとは言い切れないが、もう少し別の結末を期待していた。話の展開の核となるべきレーニンの若き日の手紙が、最後あっけなく散水車の巻き上げる雪水の中で雲散霧消するのはちと唐突な結末ではなかったか。
それにあの手紙の内容自体、ソビエト連邦の屋台骨を揺るがすほどのものであったのかどうか、冷静に考えてみると少し無理な設定かな、とも思う。しかし否定できないのはそうした疑問を、つまりは論理的瑕瑾を補って余りある作者の圧倒的で有無を言わせぬ作話術である。いま使い慣れぬ作話などという言葉を使ったが、辞書を見るとこうなっている。
「(confabulation)自分で体験しなかったことを、あたかも真実の体験であるかのように、一つのストーリーとしてかなり詳細に語る精神症状。相手をだます意図はない。幻覚、妄想、虚言などとは異なる機序で現れる。アルコール精神病や老年精神障害でみられることが多い」(ブリタニカ国際大百科事典)とある。一種の精神的疾患であるが、そんなことを言えば作家たる者すべからく作話者であって、この素質こそまさに作家の本質を形成する。
話はソ連極東赤軍に捕まったひとりの日本人捕虜が、「百六十万の兵力と戦車三万台を擁する世界最強の軍隊に、たった一人で、たった一つの頭脳を武器に、戦う」という前代未聞のドラマである。といってシルヴェスター・スタローン演じるランボーのように最新鋭の武器を使って戦うわけではない。たった一枚の紙切れと、名探偵ポワロなみの灰色の脳細胞を使っての徒手空拳の闘いである。
作話術の一つは、先日書いたように、ディテールを積み重ねての圧倒的なリアリティーであるが、しかし厳しく見てみれば、それは不必要なまでに大量に繰り出される詳細なデータによる詐術とも言える。たとえば、小説の結末近く、つまり「一週間」の金曜日、党書記長に供される前菜「お魚のゼリー寄せ」の料理法がきっちり3ページも続くなどのことである。
ただしそれが無駄なディテールだと言っているわけではない。かつてオルテガがドストエフスキーの小説術について述べたように、小説にとって冗漫さが命であるとも言えるからである。ちなみに、昭和十四年、二十二歳の島尾敏雄が『ドストエフスキイの小説に於ける冗長性について』というエッセイを書き、そこでオルテガの論を手がかりにこう書いている。
「狂気じみたと笑われるかも知れないが、私はドストエフスキイは、彼の小説の形式がか程迄に効果的であった、つまり一部の人々から非難される所の冗長多岐が<小説の内容に例の内面的密度を、例の雰囲気的圧力を作り出すのに効果的な手段>であったと言ふ事を既に計画してゐたであろうかなどと疑って来ることさへある」。
そう、それはそうなのだが、本音を言えば、『吉里吉里人』(1981年) の場合同様、井上ひさしの戯作者的特徴に、私自身まだ慣れていないのであろう。ただ自分自身に引き付けて言うならば、井上ひさし的な、サーヴィス精神旺盛で自由闊達な筆運びを取得できれば、死ぬまでなんとか書きたいと思っているいくつかの課題がもう少し手の届くものになるのでは、との期待もある。だからまだ読み通していない『吉里吉里人』も、そのうち読み直してみようと思っている。そのための準備ではないが、いま吉里吉里という言葉を「単語/用例」に登録したところである。