熱河そして灤平について

このところ熱河のことが頭から離れない。といって熱河についての知識が増えているわけではない。今日は曇ではあるが、その分涼しい一日。それでこの機会に少し熱河や灤平について調べてみることを思い立った。机の下の本棚を見ると、数年前、ネットの古本屋から取り寄せた文献がいくつか見つかった。その中に縦横17センチで26ページほどのパンフレットがあった。『熱河 Jehol』である。発行は昭和十二年九月二十五日、発行所は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、奉天住吉町五、印刷所は東京・下谷 凸版印刷株式会社、そして定価は15銭となっている。要するに写真や地図入りの観光案内書である。後学のために、おもな部分をコピーしてみる。

 (私註 ところで熱河は1956年、河北省・遼寧省・内モンゴル自治区に分割された。つまり私たち家族が住んでいた灤平は、現在は河北省に編入されているわけである。)

「熱河(ローホー)の名は蒙古語のハラガヌゴーロ(熱き河)の意にして、西洋人は之を Jehol と音訳してゐる。熱河は古の武烈河にして源を北方茅荊埧(マオチンパー)の連山に発し、南流して承徳を過ぎ灤河(ランホー)に注ぐ。この一小渓水の名<熱河>がそのまま地名を代表し、更に離宮の名に冠せられ、今や大なる省名に附せられるに至ったものである。」

「熱河省概況
 熱河省はもと東部蒙古の一部で我国の九州、四国及台湾の和と殆ど同じ面積(九万九千六百方粁)を有し、戸数六十三万八千餘、人口三百十万を擁している。昔時蒙古人の遊牧地だったが、漢人の侵入に因って蒙古人の勢力次第に殺がれ、清朝は暫次漢人の入境越墾を禁止せるに拘らず、年を遂ふて増加し、爾来百年を出でずして熱境の大部分は耕地に変じ、剰すところは東北の一部にすぎぬ状態となった。
 漢人の往く所は、先づ樹木を伐採して耕種を施すのであって、為に樹海の熱境も忽ち禿山と化し、風雨に依って土壌は洗ひ流され、山骨露出して地表は逐年悪化し、その荒廃に帰した状態は全く意表の外である。
 古来この地方は「熱民急叛」の語を以て称せらる程難治の地にして、事変以後名実共に満州国に包含されたが、その重点は経済的生命と共に、政治的意義に於て更に重要なる焦点の置かれてゐる。即ち中華民国及察哈爾省に接して満州国の生命線となり、また西南方は北支接衝の根拠地となって国勢維持に些かの忽せをも、許されない疆域にある。
 省内は承徳、灤平、降化、豊寧、圍場、赤峰、凌源、平泉、建平、寧城、凌南、青龍の十二縣及び興隆辦事處の地区に分かれている。その外に七旗公署があって、一種の属人的行政を行っており、行政区域的に重複している。
 省内の住民は概ね農業を以て生業とするも、可耕地面積は省全面積の九%に過ぎない。主として鴉片(あへん)、大豆、高粱、粟、玉蜀黍、綿花、菸煙、麻類、薬草の栽培が盛で殊に鴉片は全満産額の三分の二を占めている。農民の他は牧畜、養蜂、商工業者である。蒙古民族は殆ど遊牧の民であるが、牧畜も漢族によって圧迫され、往時の盛況は跡を絶えて、今最も注目されてゐるのは鉱産物である。金、石炭、銅、水晶、石綿の埋蔵物を有することは瞭かである。蒙古族は土地に対する一種の迷信の為に、地表開掘を忌み地下に宝庫を眠らせてゐるから、漢族によって採掘された区域以外は全貌の真相が詳らかではない。従前交通に不利な地位にも拘らず、益々移民を吸収し幾多各地に採鉱事業を行ひつゝある事は、如何に熱河が自然の資源を豊富に有するかを物語るものであろう。」

 その後、省都承徳や観光名所の紹介が続き、終わり近くに、いよいよ灤平の説明が来る。ただし、交通の便についての説明では、この昭和12年当時、灤平には鉄道が敷かれていないことになっているが、私たちが住み始めた昭和16年以降、いや確かなところではそれから2年後には、町のはずれに鉄道が通っていたはずだ。このことは私の「ピカレスク自叙伝」に書いている通りである。

灤平   自 承徳 一八粁
     至 豊甯 八二粁
 三百餘年前承徳の西四里の地に開けた一村落で康熙帝が意を寨外に注がるゝや此地が陸路交通の衝に當る為こゝに行宮を建てられた。灤河を利用する舟運があり乾隆七年(一七四二年)喀喇河屯(カラホートン)廰を設け一時商業の中心をなしたが、水害によって市街が荒らされ且つ承徳に離宮が建てられるに及んで、漸次衰頽を辿った。今は縣公署が置かれ戸数一千五百、人口七千を有する(邦人百五十)。灤河の上流は市街の東南を流れ、西南は廣潤で古北口に通ずる道路が貫通してゐる。この地方は粟、阿片の栽培盛で罌粟の花盛りの頃は、見渡す限り花園が展開される。
▼双塔山  灤平の北方八支里に、大小二峰直立すること百餘丈、その一峯は中間に三孔あり、東塔の嶺に古廟がある。何人の建立か不詳、帝に玉催と刻んだ碑がある。

 最後に出てくる双塔山についてはまったく覚えていない。ただただ延々と裸山が続いていたことだけが記憶に残っている。最後のページに割引観光券についての宣伝が載っている。ついでだからそれもコピーしておく。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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