朝八時半過ぎ、とつぜん電話が鳴った。又寝の後の朦朧とした頭であわてて電話に出た。この時間にかけてくるのは身内や友人ではないので、ときどき間違えられるOさんにかかってきた電話かも知れない。Oさんといっても会ったこともない人だが、おそらく私のところの番号と間違いやすい番号の持ち主なのであろう。実は昨日もその間違い電話があったのだが、相手の若い男は珍しく丁寧に謝ったので怒る気にもならなかった。
出てみると「長崎のI・Uですが」と言う。あの灤平時代の幼馴染みというか、家族ぐるみで付き合いのあったMさんの家の一人娘で、『モノディアロゴスⅢ』の二〇〇八年六月九日のところに書いているとおり、実に六十六年ぶりに当時の私のあだ名「アオバナチョウ・ススリナメキチ」を教えてくれた人である。電話の内容は先日その本を贈ったことに対するお礼であった。
実家は山口県萩市だが、一度そこのミッション・スクール(女子高)に通っていた頃の制服姿の写真を見たことがある。今どんなおばあちゃんになっているのか皆目想像もつかない。ご主人に先立たれ、娘さんが一人いると聞いたが、さて死ぬまで再会することがあるのだろうか。長崎には一度行ってみたいとは思っているが。
ところで、彼女は今回も、「先生はお元気ですか?」とばっぱさんのことを心配してくださった。在満国民学校で教師と生徒の間柄だったからだ。そのあと、少し気になることを言った。今日も朝から近所が騒々しい、筋向いの中国大使館(総領事館のことだろう)近くで、先ほどもパトカーのサイレンがうるさかった。これからどうなるんでしょうね、とても心配です、と言うのだ。
詳しくは聞かなかったが、おそらくは総領事館前で右翼あたりが抗議に押しかけているのだろう。東京のニュースでは、そのような騒ぎのことは報じられないが、なるほど長崎は中国とも尖閣諸島とも近いわけで、東京とはまるで違った受け止め方がされているのだろう。とりわけ漁業関係者にとっては死活問題である。どこらあたりで折り合いをつけるのか。まさに菅内閣の力量が試されている。なーんてテレビの無責任なコメンテーターみたいな言葉遣いになってしまったが、I・Uさんならずとも心配である。
もうどこかで書いたように思うが、何十年か前、広島に住んでいたころ、萩市のMさんを訪ねたことがある。駅のまん前の案内所を兼ねた店(はて、何の店だったろう?)で、おぼろげな記憶ではその頃、娘のIさんは長崎に嫁ぎ、奥さんはすでに他界し、一人で住んでいた。そう、風貌は横山エンタツ似。熱河では警察官だったから、シベリアで抑留生活をしてようやく帰国できたそうだ。そのとき私の持っていた手帖に、三聯か四聯の詩を書いてくれたはず。内容は忘れたが、おそらく抑留生活の中で亡国の歴史を嘆いたものと思うが、その手帖がどこにあるか、実は午後ずっと記憶をたどりながら探していたのだが、まだ見つからない。
他の何冊かの手帖と一緒に、捨てないでどこかにあるはずなのだが。いやその手帖もそうだが、捨てられずに放置されている過去の痕跡を、ここらでそろそろ整理しなければ、と思っている。ひと思いに捨てるという方法もあるが、私の場合、まだ死ぬまで時間的に余裕があり(と願う)、自分の手で捨てるものと残すものを分けることができるのは、実に恵まれた境涯だと思っている。たいていは、そのうちそのうちと思っているうち、病魔に襲われたり、不慮の事故に遭ったり、あるいはわが愛する妻のように記憶を失う不運に見舞われるわけで…待てよ、そう考えるとまだ余裕があるなんて呑気なことを言ってられないぞ。
まっ、あせらず、でも明日からでもひとつひとつ片付けていかなければなるまい。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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