ねじまき鳥の魅力

読みかけのものが何冊もあるのに、今は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。なにげなく見たキャッチコピーに釣られて、アマゾンから取り寄せたのである。それぞれ三百ページを越える三巻の長編である。で、そのキャッチコピーとは、次のものである。

「ねじまき鳥が世界のねじを巻くことをやめたとき、平和な郊外住宅地は、底知れぬ闇の奥へと静に傾斜を始める。暴力とエロスの予感が、やがてあたりを包んでいく。誰かがねじを巻きつづけなければならないのだ。誰かが、1984年の世田谷の路地裏から1938年の満州蒙古国境、駅前のクリーニング店から意識の井戸の底まで、ねじのありかを求めて探索の年代記は開始される」。

 今を時めく作家の作品は、実はこれが最初ではない。もうずいぶん昔になってしまったが、彼の『羊をめぐる冒険』をスペイン語訳と首っ引きで読んだことがあるのだ。一九九六年の「第七回野間文芸翻訳賞」の審査員を務めたとき、安部公房や大江健三郎などのスペイン語訳と一緒に、候補作の中の一つとして読まなければならなかったのである。そのとき受賞したのは、イエズス会士時代の先輩で(彼も退会した)セビーリャ大学教授フェルナンド・イスキエルド氏であった。
 つまり彼は、『羊をめぐる冒険』(La caza del carnero salvaje)や安部公房の『他人の顔』(El rostro ajeno )など永年にわたる日本文学の翻訳業績に対して受賞したのである。そのときのことは早くも記憶から薄れつつあるが、他にも大江健三郎の『万延元年のフットボール』(El grito silensioso <沈黙の叫び> という題に変わっている)を訳したミゲル・ワンデンベルグ氏が候補に上がっていたと思う。そのとき審査資料として講談社からもらった候補作のスペイン語版が何冊か残っているが、鉛筆での書き込みが最後のページまでなされているところをみると、真面目に最後まで読み比べたらしい。
 話を元に戻そう。なぜそのキャッチコピーに興味を持ったかというと、もちろん満州という言葉に引かれたからだが、小説をぱらぱらと読んでみると、話はノモンハン事件にかかわるものだった。確かに事件は、私が調べようと思っている時期に近いときのものだが、いわゆる外蒙古と満州の国境線での日本軍とソ連・外蒙古軍との武力衝突で、熱河のはるか北に起こった事件である。読み続けるかどうか、ちょっと迷っている。
 しかしいい機会だから、『羊をめぐる冒険』のときも感じた彼の作品の魅力について少しだけ覚え書きしておこう。たとえば彼のこんな文章。

「外に出て仕事を持つというのは生易しいことではない。庭に咲いているいちばん綺麗な薔薇の花を一本摘んで、それを通りを二つ隔てた先で風邪で寝込んでいるおばあさんの枕元に届けて、それで一日が終わるというような平和でこぎれいな代物ではない」。

 これは失業中でとりあえず家事万端を引き受けている主人公が、勤めから帰ってきた奥さんの不機嫌に対して、実に穏やかでスマートな理解を示す箇所である。そう、村上の主人公は、と言って他に『羊をめぐる冒険』しか読んでいないが、実にスマートなのだ。女性でなくてもぐっとくる暖かさに満ちている。不機嫌の原因は、生理が近いからよと、という妻の言い訳を聞いて、こんな風に答える。

「<知ってるよ> と僕は言った。<でも気にすることはない。そういうのに作用されるのは君だけじゃない。馬だって満月のたびにいっぱい死ぬんだ>」

 つまり村上文学の魅力は、優しさと、そして比喩の巧みさである。たとえばこんな文章。

「<なるほど>と僕は言った。その意味のない相槌は、『ガリヴァー旅行記』に出てくる空に浮かんだ島みたいに、テーブルの上空にしばらくのあいだ虚しく漂っていた。」

 『ガリヴァー旅行記』をしっかり読んだことのない私など、そんな島のことは知る由もないのだが、しかし彼のさりげない言葉によって、一気に広い世界へ解き放たれる。世界中の読者から圧倒的な支持を受けているのも、うべなるかな、である。


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)からいただいたお言葉転載する(2021年3月4日記)。

引用箇所からわたしが感じるのは、ムラカミハルキの優しさというより、むしろ佐々木先生の優しさのほうですね。奇妙なことのようですが、読み手の心がその引用箇所に新たな文脈を、つまり新たな泉を見いだすのでしょう。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください