父や母がなぜ満州移住を決めたのか。もちろんこれは、単にわが両親だけの問題ではなく、何十万、いや何百万という日本人の問題でもあったはずだが、今となっては母に聞くのはおそらく無理であろうし、たとえ聞いたとしても正確な答えが得られるとは限らない。当時の日本の為政者たちが、なぜ満州へ多数の日本人を送り込まなければならなかったかは、日本という国が当時直面していた政治的・経済的問題の総体の中で考えなければならない。しかしその方の勉強は、いたずらに文献を集めただけで、これまでなにひとつまともに読んでは来なかった。
いや、研究論文や大長編を書くつもりなら、その作業を避けて通ることはできないであろうが、私の願いは父(や母)の、ごく個人的な動機を知りたいだけである。兵士として、あるいは満鉄職員として、あるいは長野県のある村のように全村をあげて移住した人たちとは違って、父や母は、北海道十勝の教員の職を捨ててまで、どうして個人的に満州に渡ることを決意したのか。
父方も母方も、ともに兄弟は多い方だが、母方の叔父一家と私の家族だけが満州に渡った。両家に共通するのは、ともに没落した一族の出だということだ。父方は下級士族だったが明治維新後の新時代に完全に乗り遅れてしまった。にわか商法でろうそく屋を始めたらしいが、うまくいかず、一家は南は名古屋、北は北海道の稚内へと離散しなければならなかった。父は七男四女の大家族の下から二番目、とうぜん貧しさがその進路を大きく塞いだはずで、最終学歴は中学、それで代用教員が出発点だった。
叔父の方も(つまり母の方も)、父親(つまり私の祖父)が株で失敗して全財産を失い、それで北海道へ開拓民として渡った一族の出で、四男二女の長男だった。従弟の島尾敏雄のように文学を志したかったが、いわば父親に強制されて獣医の道に進んだ。
こう考えると、二人とも大陸浪人とも共通する境涯にあったというべきであろう。つまり一種根扱ぎにされた人間、そしてそれゆえに新天地を求める理想主義者としての心情の持ち主であった、ということである。昭和十四年、最初に単身満州にわたった父の、後続するはずの義弟に宛てたはがきに、「満州の田舎町の風景、〈大地〉そっくりの様子です。見るもの聞くもの珍らしいものばかり着流しに下駄ばきで大いにカッポしております」のなかに、その片鱗が現れていると見たい。
そんなことから、先日ここで報告したように、父が読んだであろう戦前の『大地』三巻本を手に入れたのだが、まだ読んでいない。そうしているうち、先日、ネット上で珍しい論文を見つけ、早速プリントアウトした。掲載誌は不明だが、「不安と幻想――官展における(満州)表象の政治的意味」という千葉慶という人の論文である。官展つまり政府が主催する官設美術展のことで、ここに出品されている絵画は、いわばお上の眼鏡にかなった作品であり、当時の政府が満州をどのように表現してもらいたかったか、その意図が視覚的に見えてくる場のはずあり、私が知りたいことに参考になる論文である(といって、まだ読んでいない)。
私がもう一つ調べておこうと思っているのは、もっとふつうの、子供を含めての当時の日本人が中国や満州をどのようにイメージしていたかを知るために参考になると思われる<読み物>の類である。もっと具体的に言えば、山中峯太郎などが描く〈大陸もの〉である。たとえば彼の『敵中横断三百里』や『亜細亜の曙』などの少年冒険小説である。尾崎秀樹の『夢いまだ成らず 評伝 山中峯太郎』は先日手に入れたが、肝心の作品そのものを手に入れるべきかどうか迷っている。
【息子追記】某所でいただいた立野正裕先生(明治大学名誉教授)のコメントを転載する(2021年3月4日記)。
山中峯太郎の『敵中横断三百里』のことが最後に触れられていますが、わたしにも懐かしい物語です。小学生のころに担任の先生が放課後のいっとき、物語の舞台や人物の移動を黒板に図で描きながら、まるで紙芝居のように語ってくれたことがありました。子供たちが夢中で聞き入ったことは申すまでもありません。あれから六十数年たちましたが記憶に残る映像はいまも鮮やかです。先生と語り合う機会があったら話し相手になって差し上げられたと思います。