人形の別れ

このところ父の最期の日々をなんとか知りたいとの思いからいくつか文章を書いたが、先日それらを一まとめにコピーして兄と姉に送った。なにか思い出すことがあったら教えて欲しいと添え書きして。それからしばらくして、兄からはメールが、そして姉からは電話があり、いくつか新しい事実が分かった。それを書く前に、もう四〇年も前に書いた「ピカレスク自叙伝」の最後のくだり、つまり灤平を去る日のことを書いた部分を引用する。

「皆んな起きて!さあ、日本に無事帰れるように、神さまに祈りましょう!」
 今朝、寝床の中で聞いた母の声である。昨夜、荷物づくりで遅かったはずなのに、気がせくのか、おふくろはいつもより早く起き出したようだ。
 俺たちが、おふくろの声にさそい出されて、玄関前に出ていった時、東の空がいやに赤かった。
 「朝焼けは、あんまり良くないね、雨が降るかも分かんない」、おふくろは、残念そうだった。
 おふくろの心配どおり、朝から雲が空に重くたれ下がっている。風も湿気を帯びており、今にも一雨来そうな空模様である。
 運転は小田切さんがやることになり、その横にフッケン長さんが坐った。フッケン長さんとこのおばさんと、一人っ子のあずみちゃん、それに俺たち四人は後ろに乗った。荷物も、手に持てるものだけに限られてしまったので、なんだか大がかりな遠足に行く時とさして変わりがない。
長い時間をかけて、やっとエンジンがブルブルと回転しはじめた。俺は運転台におしりを向けて立ち、今別れて行こうとする町を眺めてみた。ヒゾクが出没した山、城壁のところどころにおとぎの国の城のように立っている望楼、電信柱、風呂屋の煙突、学校と役場の赤レンガの建物、黒い石炭かすをしきつめた広場……
 ガクンと一揺れしたあと、とうとうトラックは動き出した。門を出る時、そこまで見送りに出ていた数人の満人と、俺たちと親しく口をきいたピー公の泣き出しそうな顔が見えた。線路に沿って車は走って行く。
 俺はいつまでも町の方を見ていた。町を離れるのが名残り惜しかったこともあるが、今朝あわてておふくろにはかされた半ズボンの尻のところに一銭銅貨大の穴があることも、こうして後ろ向きに乗っていることの理由なのだ。いや、後者の方が俺にとってより重大である。
俺は町を去る悲しみと共に、これから一体どういう未来が俺を待っているのかという漠然たる不安を感じていた。しかし、とりあえずわがはいの未来は、半ズボンの穴の周辺にその無気味な触手を伸ばし始めたらしい。

 まず姉が教えてくれたのは、家を離れる最後の瞬間、急いで家の中に入って、押入れの中に仕舞った人形に別れを告げたこと、トラックに乗って灤平の町を離れてしばらくして、近くの病院にいた日本人看護婦がトラックに向って、ちぎれるほど腕を振りながら、大声で何か別れの言葉を叫んでいた姿が今も瞼の裏に焼きついて離れない。だから今でも看護婦さんの姿を見る度に、草原の中の白衣姿の看護婦さんの哀しみが思い出されて切なくなるそうだ。それから幌もなにもないトラックに乗って、でこぼこの山道を走ったときの怖さが忘れられないとも。
 兄からは、トラックは承徳まで走り、そこに集まっていた日本人のグループに合流したこと、その夜、承徳の東本願寺別院に預けていた父の遺骨を取りに行こうとする母を、治安が悪くなってどんな危険な目に遭うかも分からないから、とリーダー格の人に止められたこと、そして翌日、そのグループと別れて、汽車で朝陽に寄り、叔父の家に一泊、翌日二つの家族が日本人避難民の集合地錦州に向かったことなどを教えてくれた。
 実は最初、電話で聞いた姉の思い出が強烈だったので、姉の視点から灤平最後の日を再現してみようと書き出したのだが、五年前に作った父の追悼文集『熱河に翔けた夢』に、姉がすでに短く美しい思い出の文章を書いていることを思い出したので、下手な粉飾を加えずに、そのままここに紹介することにした。



父の思い出

松山廸子


父との別れ

 小学校入学の前の年の暮れでした。自宅療養でしたので、私の年齢なりに父の死を受け入れたのでしょう。後々まで自分なりに納得しておりました。日本人学校(小学校)入学。母が担任となり、「お父さんが死んだのでお母さんから先生になったのだ」と(母にとっては主婦から職場復帰)改めて思い知りました。


父に誉められたこと

 まだ元気な頃の父が「この娘(こ)はよく気がきくんで……」と来客に嬉しそうに話しておりました。灰皿を出し、コップにビールを注いだのでしょうか。父が右側に坐っており、私がコップの中のアワを照れ乍らみてました。よく覚えております。


人形の別れ

 いよいよ家を離れる前日、祖母に送ってもらったガラスケースの中に入っている「藤娘」。押入れの下の段に片付け、何度も開けて「大事にしてくれる人に…」と願いながら――。
 父と住んだ家を去るので、人形への別れは、父への挨拶のつもりでした。


尋ね人

 帰国後帯広の祖父母の家に落ち着き、一年遅れの二年生に編入(転入)。学校から帰るとよく四時頃からか、ラジオの「尋ね人」を聴きました。帰国者や家族の安否を捜す番組。父の名前が出るはずもないと百も承知の上で――それでも、もしや、と。


父の夢

 私が三十代に入った頃、三度か四度、同じ夢をみました。
 家と学校、父の職場への途中に防火用か屋根のあるがっしりした井戸(蓋付)? 柱によりかかる様にして立っている父。茶のスーツ姿で――私の方を見ており、「あっお父さん…」と当時の私、その後から三十代の私…会話はなし…
 父の年齢を過ぎた頃からはもうみませんでした。


父の手紙

 名古屋 佐々木褜吉様宛 満州國熱河省灤平縣公署内 佐々木稔
父の筆跡、弟として礼を尽くす細やかな心くばり、思いやり、人としてのあたたかさ――父の人柄にふれ――、父亡き後の歳月が全部満たされた思いです。
 名古屋の(今は亡き)正様、手紙を保存、そして(奥様の郁子様が)送って下さいましたことに、心より感謝いたします。私にとりまして大切なものになりました。

 母も九十二歳になりました。今は亡き祖父母、多くの人たちに支えられて、今現在在ることを改めて思い、心より感謝しております。孫たちからは「優しさと未来」を教えられて――父の見守りの中で――

       
平成十六年九月二十九日大安

おかげ様で廸子は六十七歳になりました。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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