愛恋(愛ちゃん恋しや…)

お昼前、くにみの郷から電話があった。男子職員のOさんからである。ちょっと言いにくそうだったが、要するに、ばっぱさんが家の玄関まで行って、愛ちゃんに届けたいものがあると言っているらしい。なだめてもなかなか納得しないので、申し訳ないがこの電話でばっぱさんに話しかけてもらいたい、と言う。午前中、頴美が愛を連れてばっぱさんに会いにいき、元気だったよ、と報告を受けたばかりなのに、なんとしたことか。今日の午後は訪問しなくてもいいと喜んでいたのに。ともかくそのときは電話口でなんとか説得した。
 午後、いつもの時間になって、迷ったが、結局行ってみることにした。広間の椅子に座ったまま、顔をのけぞらして熟睡している。風呂に入ったあとで、気持ちよくなったらしい。「ばっぱさん、どうした? 午前中に愛ちゃん来てよかったべ?またそのうち来っから、楽しみにしてな」それには答えず、「ヒロオに行ったことあっぺ」などと聞き返す。ヒロオ?あゝあの広尾のことか、としばらく考えてやっと分かった。帯広から南に電車で数時間下ったところにある広尾という町のことらしい。さらに南に下ると有名な襟裳岬がある、あの広尾、でもどうして?
 最近、ばっぱさんは時空を越えて一気に昔に戻る時がある。でも親戚のだれかが住んだことのある町なら、広尾に行く途中の大樹に、千秋叔母さんと三人の従弟が住んでいたことはあるが、広尾にはだれも住んだことないはずだぞ。「広尾って、千秋さんが住んでいたところか?」と聞くと、「千秋さんは死んだよ」とまともな答え。「そうよ、ずっと昔にな」。広尾を大樹と間違えたのかも知れない。あのころ、千秋おばさんは大樹の小学校で先生をしていた。誠一郎叔父は帯広の病院に入院中。小学生三人の従弟たちと川遊びをしたときの写真が残っている。いや、そのときの印象が強かったのか、後年こんな詩も書いている。


旅のアルバム

   白い雲が流れ
    高原に涼風が立つ
   私の三人の従弟は
    三叉路にまぶしくポーズをとる              

   あの頃は叔母さんも
    病がちではあったが
   まだ子供たちと一緒で
    ふくよかな微笑を……

   あれは北国の夏
    都を遠くはなれた
   透き通るような紺碧の空の
    その光りが眼にまぶしい

   すべてはあの夏空に
    すいこまれ、はかなく
   あゝ、風の音がよみがえる  (一九六五、八、七)

 いやいや、そんな昔の詩のことなどどうでもいいことで、言おうとしていたのは、ばっぱさんが今やひ孫を恋い慕っていると言えるほどに、強く愛着していることだ。話しながら、ふと側の押し車を見ると、なにやら広告紙に包まれたものが乗っている。結ばれないままの細い紐をどけて中を見てみると、自分の文集『虹の橋』と、私がやった布製のメガネ入れなどが入っている。通りかかった女子職員が、それ愛ちゃんにやるんですって、と教えてくれる。 いい歳して(九十八歳だ!)なんたるご乱心を、といっときは腹が立ったが、しかし帰り道、よくよく考えてみたら九十八歳になっても人を愛する、恋しがる気持ちを失わないのは、偉い!と思い直した。良かったね、恋しい人がいて!
 (※今日の訪問時に頴美が写したツーショット、「家族アルバム」の一番前に載せておきますので、ぜひ見てやってください)

愛と一緒に
ただただめんこくて
※当時の父のキャプション

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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