奄美の方に甚大な被害をもたらした台風が相馬地方にも来るというので、すこし構えていたが、幸い予想よりもかなり東に逸れていったようだ。いつも台風の時期に思うこと、それは南の地方の人たちが毎年大変な苦労をなさるのだが、その苦労をじゅうぶんに埋め合わせる楽しさや喜びもまたあるのだろうな、いやそう思いたいということである。もちろんそれは、家屋崩壊や怪我人や死者を伴わない限りでの話だが。
今朝は愛たちがばっぱさんを訪ねてくれるはずだったが、台風接近で急きょそれをとりやめ、代わりにいつものように私たちが行くことにした。ただし美子は車の中で待つことにして。しかしその前に、石神の堀川さんのところに行った。明日三十一日はこの夏亡くなった君子おばさん(正式名は「キミ」)の百ヶ日法要と納骨の日なのだが、美子のこともあって、前日の今日、ご挨拶に行くことにしたのだ。といって座敷に上がることはせず、玄関先で失礼するつもりだった。ちょうど従弟の直人さんが畑の方から帰ってきたところだった。肇子さんも家にいたので、途中買ってきたお供えを差し上げた。お線香はそのうち孫たちを連れてゆっくりあげさせてもらうことにして、小雨の中を帰ってきた。帰りがけ畑から掘ってきたばかりのさつま芋をいただいてきた。
君子おばさんがいなくなって淋しいことだ。いつも笑顔で迎えてくれた。甥や姪四人のめんどうをみながら八十有余年のつつましい生涯。晩年、まだ足が丈夫だったころ、公民館だかで社交ダンスをやっているのよ、と嬉しそうに話していた。スペインなどでは、結婚しないで兄や弟の一家の世話をしながら一生を送る人が珍しくないが、日本でも田舎にはそういう人生を送る人がいる。家族の中でちゃんと場所があり、けっして余されるようなようなことはない。晩年、独身であったことの淋しさを感じたこともあったろうが、しかしあの曇りのない美しい笑顔から判断して、おばさんの一生は幸多きものであったことは疑いえない。
さていまこの文章は、美子の傍で、ときおりBS2の「叙情歌大全集」を見ながら書いている。昨日、■が約束どおりハードディスクを設置してくれたので、この冬は、廊下では我慢が出来ない時は、こうして美子の傍で、灯油ストーブの傍で(今はまだ電気ストーブだが)、ネットブックが使えるようになった。いま秋川雅史が「千の風になって」を歌っている。フルネームを書けたのは、リモコンで「番組内容」を押して調べたからである。まっこと便利になりました。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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