「本当は別のことを書くつもりで机に向かったのだが、今日の個展についてのご報告もしなければ、と急遽予定を変えた。用意していたものは明日書くことにする。」
こう書いたのは一昨日である。昨日、まだその気にならず、また別のことを書いた。さていつまでも逃げるわけにはいかない、思い切って書き始めよう。
二階居間から廊下に出る手前右手の本棚の中段あたりに、別にそう意図したわけではなく自然にそうなったのだが、イエズス会や聖イグナチオ関係の本が並んでいる。ふだんは特に目をやらずに通り過ぎるのだが、先日来、なにか気になりだした。
つまりこれまでの人生のうち、半世紀は優に越える期間、ある意味では私の世界の中核を作っていたキリスト教と自分の関係を再考することが当面の課題であるが、それには、青年期の大事な時期に深く関わったイエズス会との関係を考えることがどうしても避けられないのである。
自分としては恥ずかしいこと、また、はっきり実名を出すと差し障りがあることを書くことになるかも知れないが、しかし自分の恥はともかく、他人や組織や団体を中傷したり、あるいは虚偽を述べるのでない限り、もうAさんとかB会とかC大学などと実名を伏せることは止めようと思う。もし私の意に反して不愉快に思われる人がいたなら、その都度きちんと謝ることにしよう。
なんて思わせぶりな書き方をしたが、実際はそれほど大したことを書くつもりはない。だいいち還俗も離反も、確たる信念なきままの行為の連続だったから、キリシタン時代の転びバテレン不干斎ハビアンのように『破提宇子』みたいなものを書けるわけがないのだ。ただ先日来、神吉先生との交流を振り返って、今更ながら感じたのは、自分の過去に誠実に向き合うことを先延ばししていたら、まず第一に記憶そのものが摩滅していく危険があり、いやそれ以上に、自分に残された時間があまりないかも知れないからである(なんて書きながら、ばっぱさんより長生きしたりして)。
先ほど青年期の大事な時期と言ったが、オルテガはもっと具体的に二十六歳という歳を上げ、こう言っている。
「二十六歳という年は、大きな問題に直面して、人がたんに受身的ではなく、自発的に行動し始める時期である……この時期に、われわれは、忽然として自分の内部に、どこから来たのか知らないが、ある種の決意もしくは意志、つまり真理は一定の意味をもち、ある種のものに基礎をおいていなければならぬという決意、がすでに確固として自分のなかにあることを発見するのだ」(「ドイツ人のための序文」、全集第八巻34-35ページ)
オルテガの場合、彼の哲学の最初の萌芽というべき「楽園のアダム」が書かれたのが1909年、二十六歳のときであった。そんな偉い人と比べること自体恐れ多いことだが、私の二十六歳は、1965年、つまり広島での二年間の修練を終えて上石神井の神学院で哲学の勉強を始めた年である。ただ残念なことに、オルテガのようにはっきりした意志や決意が訪れたわけではなかった。今から考えると(いや誰が考えてもそう見えるだろうが)、広島での修練、特に『霊操』と呼ばれる大黙想を経ても、キリスト者・修道者としての確信がないまま哲学の勉強を始めたのだ。つまり最初から腰の定まらないまま当然の挫折を迎え、そのことに自分なりの総括をしないまま、今日に至っているわけだ。
もちろんそんな難問にすぐの答がでるはずもないが、しかし繰り返しになるが、今から始めなければ、なんの確信も持たないままで死を迎えることになりかねない。それだけはなんとしても避けなければならない。
再度オルテガの言い回しを借りるが、こういう微妙で難しい問題には、イェリコの包囲戦のようにゆっくりと相手との距離を縮めていかなければならない。ときには休戦をはさみながら(私の場合は何度も何度も休戦をはさまなければ)。
今日はとりあえず戦闘開始のラッパを吹いただけである。これがいつものようにラッパだけに終わるか、それとも意外と執拗に包囲網を縮めていけるかどうか、言ってる本人にも分らないが、ともかく一歩は踏み出した。