森鴎外の短編に「カズイスチカ」(明治44年)というのがある。十年ほど前に死んだ父・森静男の思い出と、その父から自分は何を受け継いだのか、を自省した小説である。表題のカズイスチカとは、症例に応じての治療といったほどの意味を持つ医学用語らしいが、しかしこれはもともとは倫理神学で使われた言葉である。「ブリタニカ国際大百科事典」にはこう説明されている。
「決疑論、倫理神学の用語。道徳的問題を個々の具体的状況 casus において道徳的規範に照らして解決する方法。初代教会以来イエスの教えがそのように用いられてきたが、カトリック教会で告解の秘跡が重んじられだしてから発展。蓋然説、厳密蓋然説、折衷的蓋然説などが対立。蓋然説は道徳の低下を招くとしてパスカルの批判を受けたが、のち修正されてローマ教会の主流をなしている。」
つまり casus とは英語でいうと case のことで、倫理規範を杓子定規に当てはめるのではなく、場合や場面に応じて解決してゆく立場をいうわけだ。ブリタニカの説明では分りにくいが、決疑論が論争を経て蓋然説(プロバビリズム)へと流れていくというのだろうか。ただ不思議なのは、平凡社の浩瀚な「哲学事典」に決疑論も casuistica も載っていないのはどうしてだろう。
というのは、この決疑論をめぐって、パスカルがイエズス会を批判し攻撃したからである。そしてそこから、イエズス会批判がエスカレートしてゆく。たとえばその有名な論拠として、イエズス会は「目的は手段を正当化する」という思想を持っているとか、布教の方法論として、権力の中枢に近づいて、上から下へ効果的に福音の成果を挙げようとしている、などの非難がなされた。
事実、日本や中国、フィリピンなどの布教において、その点をフランシスコ会士やドミニコ会士が抗議したこともあった。たしかにそう言われれば、フランシスコ・ザビエルその人もまずはミヤコに上ろうとしたし、日本に大学を設立するのが宿願であったらしい。そしてそれは、1908年に再渡来した三人のイエズス会士(英国人、フランス人、ドイツ人)によってついに1913年、上智大学設立をもって達成されたわけである。
とここまで書いてきて、このままいくと、どんどん歴史の中にはまり込んで行くようで、私との関係が希薄になっていくのでは、との不安が頭をもたげてきた。客観的(?)なイエズス会史など書くつもりなどさらさらない。それについてなら、たくさんの文献があり、いまさらそれをなぞってみても意味がない。だいいち、正面突破など柄ではないはず。先日も言ったようにイェリコ包囲戦方式で、搦め手からの接近を試みるべきであろう。
このところオルテガからまたもや離れてしまっている。明日からは、まずはオルテガの作業、そしてその後に包囲戦に戻ることにしよう。今日もおかげさまで恙無い一日であった。秋らしい晴朗の日和、夜ノ森公園に幼い子供たちの声が響き、陽だまりのベンチには五人ほどの爺さんたちが秋空を見上げていた。