今月の「島尾敏雄を読む会」は、会館の都合で一週間ずれて今日だった。出かける直前、北海道は上士幌でクリニックをやっている従弟の御史さんがばっぱさん訪問のあととつぜん我が家に寄ってくれたのだが、そんなわけでわずか三十分しか話せなかった。彼は三時の電車でいわきの姉のところに行き、今晩はそこで泊まるとのこと。姉とは何十年ぶりかの再会らしいので、今回は我慢しよう。そのうち、こちらからも北海道に行くことを約して、玄関先で別れて小高に向かった。
さて今日の話の内容だが、島尾敏雄からは大きくはずれて、ここ数日来読んだり書いたりしてきたことを話すことにした。つまりアーサー・ビナードと菅原克己についてである。このモノディアロゴスで書いてきたようなことを話したわけだが、結論は…いやそんなものは出なかったけれど、強いて言うなら、文学というものは、たとえば文豪などの書くメジャーな文学、いかにも芸術芸術した(?)外連味のある文学も面白いが、しかし賞ももらわず、そう大して評判にもならないが、少数の読者に深く愛されるマイナーな文学があってもいい。つまり文学はオリンピック競技でもノーベル賞争いでもないわけで、読者としては自分の胸に深く染み入るような作家に出会うことの方がはるかに意味があること、いやそれこそ文学の醍醐味ではないか、というような話をしたのである。
『日々の非常口』は最後まで期待を裏切らなかった。もちろん全部が全部ヒットしているというわけではないが、しかし最後まで一定水準を大きく下回るようなことはなかった。それで実物を見てもらおうと、最後のエッセイをコピーして皆さん(といっても四人だけだが)に配った。だからここでもその最後のエッセイをご紹介しよう。
水を乞う「寝耳に水」という日本語があるが、アメリカの南西部に残る言い伝えでは、水のほうが就寝する――sleeping water とは、流れていない、しんと静まった状態の水のことだ。
無風の夜の池がそうなったり、桶に溜めた水もそうだったりする。眠ったままの水を不意に飲み込むと体に悪いらしく、動物たちはそれを知っている。馬がいつも鼻を鳴らしてから水を飲むのは、相手を目覚めさせるためだともいわれている。
わが家の飼い猫ラー子の飲み水は、小さな椀に入って台所の隅におかれ、妻がそれを入れ替えるとき以外は、静かな sleeping water となっている。飲む前にラー子は水をじっと見つめ、匂いも嗅いで確かめる。安心すると、今度はペチャペチュペチャペチュと派手に音を立ててのどを潤す。
ぼくは前からラー子の飲みっぷりだけでなく、そののどをゴロゴロ鳴らす様子も観察してきた。おいしい缶詰を開けてもらったときとか、ストーブの前で暖まったときとか、遊んだあと、膝の上で休んでいるときとか、ちょっといいことがあると、のどから快音が流れる。かと思えば、部屋が冷え、構ってももらえないで、いいことが何もないときにも、ゴロゴロいう。
そんなときラー子は、自分の中に眠っている幸福感を揺り起こしているのじゃないかと、ぼくには思える。ふつう嬉しいことがあるから嬉しくなる。人の心もその因果関係で動くのだろうが、けっして一方通行ではないはずだ。つまり、嬉しくな [け] れば嬉しいことに出会おうとし、そう内側を始動させて初めて得られる幸福感もある。
さしあたってぼくは健康だし、できるだけ長生きするつもりだが、墓碑銘は一応選んである。「水を乞いて酒を得た」という、万葉集に出てくる言葉だ。振り返ると今までの人生は、何かを求めればほとんど例外なく、希望を超えるものが返ってきた。まるで sleeping water かと思って起こしてみたら、それが美酒だったという具合に。
自分の墓がどこになるのか、英文もほしいかもしれないので訳しておいた。
I asked for water and was given wine.
( ※文中、な[け]れば、としたのは、ミスプリントではないか、と判断したからである。)