9.11が何年のことだったか忘れている。あれだけの大事件も風化していくのだろうか。そんなおり、リービ英雄の『千々に砕けて』(講談社、2005年)を読んだ。作者自身とおぼしきエドワードという日本在住のアメリカ人が、機内禁煙対策として(ニコチン中毒気味なので)カナダ経由で帰米する途中、9.11事件のとばっちりを受けてバンクーバー空港で数日間足止めを食う。その間の心の揺れ動きを描いた作品である。
まず読み始めのところで引っかかったのは、主人公が明らかに作者自身と思われるのに、エドワードという名で呼ばれていることである。つまりエドワードと「語り手」と作者の関係がなにか落ち着き悪く、それならいっそ「私」で統一したほうが良かったのでは、と思った。エドワードが作者自身であることは、この本の最後に加えられた「あとがきにかえて――9.11ノート」でも明らかなのだが。
この短編集には、もう一つ「コネチカット・アベニュー」が収録されている。「千々にくだけて」の時はアメリカ入国を果たさずに日本に帰るのだが、それから一年後、今度はまっすぐアメリカに入り、ワシントンの出版社に勤める血の繋がらない妹を訪ねるという、いわば9.11後日譚である。ここでも主人公はエドワードという名で、明らかに二つの短編が連作の体を成していることが分かる。
9.11を直接描くのではなく、カナダという作者にとっては異国(たとえカナダがどんなにU.S.A.に似ているにせよ)の、しかも空港とたかだか1キロにも満たない周囲での、しかも事件に関してはテレビという媒体を通じての、不確かで途切れとぎれの情報を通じて描くという手法は成功してるように思う。つまり事件を間接的に描くことで、かえって事件の大きさや意味、そしてその異常さを際立たせることに成功している。しかし難を言えば、「千々にくだけて」の方は、主人公の心の動きや周囲の状況に対する感受をいささか冗長に描いていることである。
その点、長さでは四分の一にも満たない「コネチカット・アベニュー」の方が小説として成功しているのではないか。しかしもう一つ、本の構成という点では、「9.11ノート」を同時収録したのはまずかったのでは、と思う。先の二つが「群像」という文芸誌に小説として発表され、後者が「世界」という総合誌(?)に「ノート」の形で掲載されたらしいが、そのノートが二つの小説を補足説明するものなのか、それとも「ノート」という形を借りたもう一つの小説なのか、理解に苦しむからである。つまり先の二つの小説の緊張状態をむしろ弱め、平板なものに見せるという働きをしているからだ。
ところで「千々にくだけて」という文句は、松島を詠った「島々や 千々にくだけて 夏の海」という芭蕉の句からとったものということだ。アメリカに向かう機中から見えた北米大陸の岸辺近くの景色から連想した句で、それは後に貿易センタービル崩壊の状景と結びつく。芭蕉の句が効果的に使われていることがこの小説の骨格のもろさをかろうじて救っている、と言ったらあまりにも厳しい批評だろうか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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