書きかけの葉書

午後の便で、伸三さんからばっぱさん宛てに手紙が届いた。ちょうど訪ねるときだったので、車の中で開いてみた。これまでだったら、いくら親子の間柄といっても、ばっぱさんに来た手紙を開封するなんてことはしたことはないが、最近ではかなり耄碌してきて、たぶん手紙のことを言ってもピンとこないだろうから、話をもっていくための準備が必要なのだ(誰のために言い訳しているんだろう?)
 入っていたのは書きかけの葉書と、伸三さんの短い手紙であった。

「前略 父・敏雄の机上に残されていた葉書です。貴姉への書きかけと思われますので、お送りいたします。
 父他界より25年経ちました。月日の流れは早いものです。 伸三」

 官製はがき(とは今言わないか?)には、ただ「千代ちゃん おはがきありが」だけ書かれている。確かに見覚えのある敏雄さんの筆跡である。伸三さんの簡単な説明を、推定を交えて解釈すれば、こういうことになろう。名瀬の島尾邸では、残された膨大な量の遺品の整理がまだ終わっていない。なにせミホさんは愛鳥の羽まで丁寧に紙に包んで保存しているらしい。時おり東京から泊りがけで整理に出かけての作業だから、終わるまであと何年かかるか分からない。そして最近のある日、敏雄さんが亡くなる直前に机の上のあったものを一括まとめてあった紙袋(あるいは箱?)が見つかり、その中にばっぱさん宛ての葉書が入っていたということだろう。
 一九八六年十一月十一日午後、敏雄さんは鹿児島市宇宿町の自宅玄関脇のプレハブの書庫で本の整理中に倒れ、そのまま救急車で病院に運ばれた。順当に考えるなら、この葉書は敏雄さんの絶筆である。だからミホさんはこれ捨てずに名瀬の家まで大切に持っていったのであろう。二十四年後にとどいた葉書である。敏雄さんから私やばっぱさんに来た手紙のほとんどは、浮舟の資料館に寄贈しているが、この葉書だけはわが家に取っておこうか。
 敏雄さんが斃れたのは六十九歳の時、私はそれを二歳上回って生きている。毎日九十八歳の母に会っているから、まだ自分には、そして美子にも、余生に余裕があるように錯覚するときもあるが、自分にも確実に死は近づいている。昨夜など、そんなことを考えながら寝床に入った。ましてや時節は秋、寒さも加わって、寂しさが募る。
 テレビは北朝鮮と韓国との間に砲撃戦があったというニュースを流している。死傷者まで出たらしい。北朝鮮の後継指導者と目される三男の、もしかして祖父の顔に似せて整形したかも知れぬ、大きな顔が何度も画面に出てくる。愚かしい限りのチキン・レースは止めようよ。自分であれ他人であれ理不尽な死に急ぎだけはごめんだ!

※案の定、ばっぱさんはよく事情がつかめぬようなので、葉書は家に持ち帰って保管することにした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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