柚の花

今日の夕食に出た漬物に柚の香りがした。そういえば毎年このごろ柚をもらったり買ったりしていたが、頴美はその伝統をきちんと守ってくれているわけだ。ちょうど豊田君仙子さんの『柚の花』を廊下の本棚からもってきて、装いも新たな句集に作り替えたところだった。県内に十九基も句碑を持つ著名な俳人なのに、句集はこの『柚の花』一冊だけで、しかも刊行されたのは1968年、君仙子さんの亡くなられる四年前、しかも装丁は緑色の無地の厚紙という質素な作りである。君仙子さんの人柄をそのまま表していると見て、このままでもいいかな、と思ったが、昨日、見ず知らずの詩人・菅原克己にあれだけの装丁をした手前、やはり思い切って手を加えた。
 草木染めのような茶色の布がばっぱさんの衣装箱にあったので、それで本を包むだけの、ごく簡単な作業だった。わずか133ページの薄い句集だが、これで少しは見栄えがよくなった。見返し遊びのところに、

「佐々木千代様におくる 君仙子
   海近く 明けの郭公 渡りけり」

と直筆で書かれている。
 今回、初めて「序」をゆっくり読んだ。書いたのは渡辺桂子という人だが、俳句の世界はとんと不案内なので、ネットで検索してようやく分かった。君仙子さんがその同人であった曲水吟社の創設者・渡辺水巴の夫人である。以前紹介した『おだかの人物』の君仙子さんのページに、夫人が1952年に君仙子宅を訪れたときの写真が載っている。自宅庭に「柚の花」の句碑が建ったときのものらしい。

柚の花や 繭売りすみて 月夜なる

 この句を挙げながら、渡辺桂子氏はこう書いている。「相馬の君仙子さんと云えば曲水で隠れもない大きな存在で、同時に福島県の一大俳人とも言えましょう。野馬追の武者の装束をつけたら、しっくり似合うと思う古武士の風格と丈高き君仙子さん、昔も今も変らぬ相馬弁が特長です」
 丈高き、とは見えなかったが、しかしそう見えるだけのがっしりした体躯に、いつも優しい笑顔の君仙子さんが懐かしく思い出される。ところで、君仙子さんは私の祖父幾太郎といとこ同士らしいのだが、それがどう繋がっているのか、まだ調べていない。幾太郎の『吾が家史』をそろそろ読み解かなければなるまい。
 ついでに、今回目に付いた君仙子さんの秀句を一つご紹介しよう。ちょっと季節はずれの句ではあるが。

菜の花に 染まるほかなき 農婦かな

「染まるほかなき」はいいですなー。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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