江藤淳の『夏目漱石』を読んだときの感動をいまも鮮明に覚えている。実に歯切れのいい文章で、批評の面白さを存分に味わわせてくれた本である。今日、最近の日課となった古書の整理をしていたとき、表紙全体がフィルム・ルックスで補強された角川文庫版に久しぶりに出会って懐かしかった。一九七〇年の第四版だから、双子が生まれたはいいが、原町のばっぱさんとの同居も、福島での美子の両親との同居も、ともにうまくいかず、というか、清泉女子大にやっと非常勤の口が見つかって渡りに船と、逃げるように一家で上京したころに購入したものらしい。
生後五ヶ月ちょっとの赤子をそれぞれ一人ずつ抱いての上京だったはずだが、細部はもう覚えていない。最初のアパートは、登戸から南武線に乗って二つ目の稲田堤という駅から、線路沿いに歩いて五分くらいのところにあった。古い二階建ての一階東寄りの二間で、南側は塀のすぐ側から梨畑が広がっていた。身分は非常勤だったが、特別なはからいで教務課の手伝い、教授会の書記などもやって、どうにか生活できるくらいの給料はもらえた。
美子もよくやった。二人の赤子の面倒を見ながら、夫の留守の間、家事全般や買い物をこなしていたわけだ。でも貧乏は全く苦にならなかった。まな板一つ買うのも大きな買い物のような気がして、それなりに楽しかったのである。美子がキクラゲください、と言って魚屋のおじさんに笑われたのもそのころである。勤めがないときは、もちろん私もミルクやおしめ換え、そして風呂などを手伝った。子供たちも幸い大きな病気をすることもなく順調に育ってくれた。
閑話休題。たしかそのころ、新宿紀伊國屋ホールだったかで、何人かの講演会があり、そのときの江藤淳の話上手にいたく感心したこともあった。しかしそのうち、彼が次第に右傾化していったあたりからまったく彼の作品を読まなくなった。『漱石とその時代』は買っただけで読まず、世評高かった『成熟と喪失』は買うこともしなかった。一九七七年、『文學界』1月号の開高健との対談で「武田(泰淳)さんの物心両面の継続投資」が「埴谷雄高さんをいままでサーヴァイヴさせ」たと発言して埴谷さんを激怒させた事件(?)は、したがって全く知らないで過ごしたが、後にそのときの埴谷さんの怒りに満ちた反論を読んで、江藤淳という人間の下地が見えた気がして、嫌な感じを持った。
だから一九九九年七月の彼の自殺も、はるか遠くのことと捉えて何の感慨も覚えなかった。しかしだからといって彼の『夏目漱石』の価値が減じるわけでもないだろう。いまのところ再読する気はないが、私の読書遍歴の一時期、批評の醍醐味を教えてくれた一冊として、とうぜん装丁される資格はあるだろう。例の手順で、硬いボール紙で補強され、布で表装されてめでたく書棚に納められることになった。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日